
【山本美憂もう一息!(9)】米国での高校生活を終えた後、再び世界の頂点を目指すため日本のレスリング界に復帰しました。米国の大学に進学もするのですが、日本にいる間は父(郁榮氏)の元で競技に専念。復帰戦となる1993年の全日本女子オープンで2位に入ると、94年の全日本選手権で優勝。91年大会以来となる世界選手権(ブルガリア)の女子50キロ級出場を決めました。2試合に勝ち、決勝では前年の世界女王アンナ・ゴミス選手(フランス)を4―0で下し、2度目の優勝を果たしました。
当時、世界各地で女子が普及し始め、本格的に2000年シドニー五輪での実施種目入りを目指す動きが出ていました。当時、日本の女子レスリング連盟理事長で、世界でも指導的役割を担っていた福田富昭さん(現日本協会名誉会長)から「女子レスリングのPRに一役買ってもらいたい」と依頼されるようになっていました。福田さんとも相談し、私は「プロ宣言」をさせていただきました。
記者会見で「芸能界を含めた幅広い活動をすることで、五輪種目になるための宣伝的な役割をしたい」と説明させていただきました。当時は、アマチュアと呼ばれる選手が自由に広告活動等をすることに規則があったのです。一方で、女子レスリングへの注目が増えてきており、私にもいろいろなオファーが来るようになっていました。マネジメント会社に所属し、テレビCMに出演することも決定。もっと枠にとらわれず、試合出場で報酬を得たり、テレビなどで活動し女子レスリング発展に協力できたら、と考えました。
試合もプロ選手として臨むことになりました。最初の試合となったのが全日本女子プロレスの東京ドーム大会。94年11月、日本レスリング協会と提携していた全女が初の東京ドーム大会を開催。女子レスリングからも2試合が組まれ、私とデビューしたばかりの浜口京子さんが抜てきされました。対戦相手も、その時のトップ選手を招聘。私は、世界選手権決勝で競ったゴミス選手と試合をしました。
過去2回、後楽園ホールで全日本選手権の決勝に臨んだ際には、リングの支柱は撤去されていてロープもなく、小高い場所で試合をする感覚でした。しかし東京ドームでは、プロレスのリングそのまま。ロープも張られ、マットも硬く、いつもとは違う感覚でした。
約4万2500人の大歓声のなか、ゴミス選手に4―1で勝利。お祭りのような雰囲気でしたが、プロレスのファンにもレスリングをアピールすることができました。
翌95年は1階級下の47キロ級で全日本を制し、世界選手権(ロシア)も制覇。しかし、私はこの年、重大な決断をするのです。
☆やまもと・みゆう 1974年8月4日生まれ。神奈川県出身。72年ミュンヘン五輪代表の父・郁榮氏の影響で小2からレスリングを始める。87年に中1で女子初の全日本選手権を制覇(44キロ級)し、47キロ級も含め5連覇。同選手権では計8度の優勝を誇る。91年、年齢制限のある世界選手権に特例で出場し史上最年少の17歳で優勝。94、95年も世界を制した。2016年にMMAに転向し「RIZIN」で女子格闘技をけん引。3人の子を持つ母。156センチ。
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