日本テレビ系の人気演芸番組「笑点」のレギュラー回答者、司会を半世紀も務め、軽妙な語り口で親しまれた落語家の桂歌丸(かつら・うたまる、本名椎名巌=しいな・いわお)さんが2日午前11時43分、慢性閉塞性肺疾患のため、横浜市内の病院で死去した。81歳だった。落語家人生67年の秘話を関係者が語った。

 訃報を受け、横浜市内の歌丸さんの自宅には30人ほどの報道陣が集まった。

 近隣に住む60代の女性は、歌丸さんは住民から「ウタさん」と呼ばれていたと明かす。「笑点」の司会を降板した2016年、「元気そうですね」と声をかけると、歌丸さんは「いろいろ“仕掛け”があってね。ホントは大変なんです」とポツリ。

 メークや照明などで可能な限り元気に見せていたようで、実際は番組で見せる姿とは違うやつれた表情をしていたという。

 1951年、15歳の時に五代目古今亭今輔に入門した歌丸さん。落語家生活は今年で67年を迎えていた。

 歌丸さんといえば「笑点」の大喜利でもたびたびネタにしていたのが、4歳上の冨士子夫人だ。

 最初のあいさつで「一度でいいから見てみたい。女房がヘソクリ隠すとこ。歌丸です」と、恐妻家をアピールする都々逸を披露するのが定番だった。実際は恐妻とは程遠く、賢夫人として知られる冨士子夫人だが、歌丸さんとは、結婚を決めるまで交際していなかったという。

 歌丸さんが冨士子さんと結婚したのは57年、21歳の時。演芸関係者は「師匠の今輔さんは『落語家は早く結婚した方がいい』という考えを持っていた。でも入門してすぐ育てられた祖母を亡くした歌丸さんに身寄りはいなかった。そこで今輔さんが『私が世話する』と言ったが、歌丸さんはこれに反発して『いや、私には交際している相手がいる』と言ったそうです」と明かす。

 実際には交際している相手はいなかった。そこで近所に住む知り合いに頼み、紹介されたのが冨士子さんだった。

 亡くなる前日の1日に放送されたミニ番組「もう笑点」に出演し、最後まで仕事をこなしていた歌丸さんは、落語家として“生涯現役”を全うした格好だが、意外にも落語界から離れた時期がある。

「世話をするという師匠の申し出を断ったことで、すでに関係がうまくいかなくなっていた。その後、寄席の出番について歌丸さんが反発する姿勢を示したことで、破門状態となったんです」(同)

 行き場を失った歌丸さんは58年から約2年半、落語界を離れた。厳密に言うと落語家人生は65年だった!?

「当時は仕事がないから冨士子夫人と一緒にポーラ化粧品の営業をやったそうです。でも歌丸さんは化粧品についてほとんど知らない。営業成績は冨士子夫人の方が断然良かったそうです」(同)

 メッキ工場などでも働いたが、結局は落語家をあきらめきれず、桂米丸に頭を下げて頼み、門下として復帰が許された。

「米丸さんも今輔さんの弟子で、本当は歌丸さんの兄弟子だったが、その師弟関係は最後まで続いた」(同)

 二つ目だった66年、「笑点」放送開始からレギュラーとなり、68年に真打ち昇進。2006年に五代目三遊亭円楽さんから司会を継いだ。「笑点」が放送50年を迎えた16年に体力の限界を理由に司会を降板したが、番組では「終身名誉司会者」として視聴者に愛された。

 現司会者の春風亭昇太は2日、都内での独演会後「歌丸さんにはご苦労さまと言いたい。立派な人生だったと思います。残念だが、格好いいところは覚えているので安らかに」と沈痛な面持ちで語った。

 歌丸さんから司会交代の際「昇太さん、気楽にやってくださいよ」と言われたといい、「後輩に対しても丁寧な言葉で気を使ってくれる師匠だった。戦争も体験し、人としてのすごみがあった」としのんだ。今後の「笑点」については「明るくやるのが一番のお礼になる。楽しくやっていきたい」と語った。

 最後の高座は4月19日の国立演芸場定席となった。葬儀・告別式は近親者で営まれる。お別れ会が11日、横浜市港北区菊名の妙蓮寺で開かれる。