【八重樫東氏 内気な激闘王(12)】 オレなんてこんなもんだ――。周囲の大きな期待を背負って戦ったイーグル京和さんとのWBC世界ミニマム級タイトル戦(2007年6月4日、パシフィコ横浜)はボコボコにされて判定負け。プロ7戦目での世界王座獲得という最速記録は夢に終わった。だけど、敗戦のショックは全くなかった。自分に自信がない性格ゆえ「こんなもんだ」と負けをすんなり受け入れることができた。
ここから4年間、世界戦の話は全く来なくなった。タイミングの問題もあったが、とにかく僕はケガがメチャクチャ多かった。09~11年に日本タイトル(ミニマム級)を3回防衛しているが、指名試合しかやっていないので1年に1試合のペース。試合の2週間前にケガで動けなくなったこともあり、大橋(秀行)会長からは「こんなにケガが多いと試合を組めない」と引退勧告も受けた。
しかし「まだ頑張ります」とはねのけた。会長は親心で言ってくれたのだろうが、幼少期から取りえがなかった僕がようやく見つけたボクシングを諦めることは到底できなかった。
何とか肩の故障を治したと思ったら、すぐに腰のケガ。そんな歯がゆい時期は続いた。いろんな病院へ行って医師の指導を受け、もがけばもがくほど負のスパイラルにハマって抜け出せなくなった。だが、逆に考えると、この時期の経験がトレーナーとしての今につながっている気がする。ケガと向き合ったことで知識量が増え、フィジカルやサプリメントにも詳しくなった。一つのことを徹底的に掘り下げるオタク的な性格もプラスに働いたと思う。僕は自分自身を人体実験しながら知識を蓄えていった。
11年4月、日本ミニマム級王座を3度防衛していた僕に世界戦の話が来た。相手はWBA世界ミニマム級王者のムハンマド・ラクマン(インドネシア)だったが、東日本大震災の直後とあって来日できず、流れてしまった。その後、ラクマンに勝利して新王者となったポンサワン・ポープラムック(タイ)との試合が決定。ボコボコにされて世界のベルトを逃してから4年4か月ぶりの世界戦挑戦が正式に決まった。
この時、辞める覚悟ができていた。世界王座に2回も挑戦させてもらい、再び負けたら確実に商品価値はなくなる。それに当時は世界王者が負けたらパッと引退する風潮があった。28歳という年齢もオッサンに近かったため、負けたら潔く身を引こうと考えていた。
11年10月24日、東京・後楽園ホール。ボクサー人生を懸け、背水の陣で臨んだ。実は当時メディアに内緒にしていたことがある。僕はひどい右肩痛に苦しんでいて、1ラウンドは左だけで勝負することになったのだ。
☆やえがし・あきら 1983年2月25日生まれ。岩手・北上市出身。拓大2年時に国体を制覇し2005年3月に大橋ジムからプロデビュー。11年10月、WBA世界ミニマム級王座を獲得し岩手県出身初の世界王者になる。12年6月にWBC同級王者・井岡一翔と史上初の日本人世界王者同士の統一戦で判定負け。13年4月にWBC世界フライ級、15年12月にIBF世界ライトフライ級王座を獲得し3階級制覇を達成。20年9月に引退。プロ通算35戦28勝(16KO)7敗。身長162センチ。












