上方落語の象徴で人間国宝の桂米朝(かつら・べいちょう=本名・中川清)さんが19日、肺炎のため兵庫県尼崎市内の病院で死去した。89歳だった。1950年代ごろ、当時衰退し切って「もはや終わりか」といわれていた上方落語の再興に尽力し、理論家、研究家としても知られていた。そして、あの故立川談志さんをかわいがり、“2人だけの関係”もあったという。
端正なルックスと上品な語り口で人気を集めた米朝さんは後進の育成にも優れた才覚を見せ、月亭可朝(77)、二代目の故桂枝雀、二代目の桂ざこば(67)ら個性派の落語家も多く育てた。
長寿ゆえか、近年はたびたび「亡くなったのでは」と死去の噂が流れることもあった。米朝さんに近い関係者は「年とっても肉好きで、亡くなったという話が出るたびに『こんなに食欲あるのにウソやろ』と笑っていた」と振り返る。
1996年に人間国宝に認定された米朝さんが落語家になったのは、戦後間もない47年のことだった。その時代を知る関西の演芸関係者は「桂米団治師匠(四代目)に入門して修業を積んだ。米朝さんの息子は、その師匠の名前を継いで、当代の五代目桂米団治を名乗っている。師匠への思い入れが相当強かったんですよ」と明かす。
当時の上方落語の世界は、戦死した者も多く「このままでは廃れる」との見方が一般的だった。
「そうした中で入門した米朝さんは、上方落語の系譜を途絶えさせないように早くから後進の指導に力を入れていた。もし米朝さんがいなかったら、関西の落語の文化は早いうちに廃れてしまっていたでしょうね」(同)
それだけ米朝さんは上方落語を愛し、途絶えさせないよう懸命だった。
「当時は数も少なくなっていた年配の師匠を訪ねて熱心にネタを教えてもらい、終わったら慌てて喫茶店に駆け込んでメモしていたそうです。彼の努力があってこそ上方落語は再興した」(同)
そんな米朝さんを慕って入門したのが、故桂枝雀さんやざこばらの弟子たちだ。息子の米団治を含め、弟子たちの多くは看板として立派に一本立ちしている。
一方で、米朝さんは学究肌の理論家として、落語の研究にも生涯をささげた。こんな米朝さんを心から慕っていたのが、2011年に亡くなった立川談志さんだ。
「談志さんは理論家として知られているが、その彼が心酔していたのが米朝さんだった。ことあるごとに『これはどういうことなんですか?』と米朝さんに聞きに行っていた。そんな談志さんを米朝さんもかわいがり、2人でいろんな話をしていた」(お笑い関係者)
一部で“生意気”といわれた談志さんも、米朝さんの前では従順だったとか。
「ほかの落語家も『2人にしか分からない世界なんでしょう』と、近寄れなかった。理論家といわれた2人には、独特の世界があったのでは」(同)
落語界を超えた日本文化の巨星墜つ。通夜は24日に、葬儀は25日に大阪府吹田市・公益社千里会館で営まれる。
喪主は長男の五代目・米団治が務める。
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