【昭和ロックを語る時が来た】鮎川誠 まさかのYMOと運命の出会い

2019年11月15日 10時00分

シーナさんがYMOと鮎川を結びつけた

【ダイアモンド☆ユカイ 昭和ロックを語る時が来た】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(57)が、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。「シーナ&ロケッツ」のギタリスト、鮎川誠(71)がシナロケ結成とYMOとの邂逅を語る。

 ユカイ:前回、シーナさんと組もうとは全く考えてなかったというお話でしたが、気持ちが変わったのはなぜですか?

 鮎川:他のシンガーに提供した曲をレコーディングしよった時やね。シーナもその場にいて、横で「ふーん」ち感じで聴きおったら、歌ってた子が「やりにくい。あなたの方が歌えるんじゃない」ち出てきて、シーナが「歌えるよ」ち代わりに入ったんよ。

 ユカイ:おー、受けて立ったんですね。

 鮎川:シーナが「ワンツースリー、ゴー」っち歌いだして、それ聴いた瞬間、俺はこういうボーカルと組みたいと思った。その日の帰り、シーナが「私も自分が歌うレコードを聴きたい」っち半分ひとり言みたいに言うたけ、それで「じゃあ作ろうぜ!」ち。

 ユカイ:気持ちが変わったんですね。

 鮎川:それまでシーナに花もやったことない、ろくに誕生日も覚えてない。ずっとジョン・レノンやストーンズ追いかけて、ブルースに憧れて好きなことをやってきた。夫婦でロックなんてカッコ悪いち思っとったけど、シーナと一緒にやる!っち一気に気持ちが変わった。その時の曲が後のデビュー曲「涙のハイウェイ」やった。

 ユカイ:そしてシナロケを結成。デビュー前にエルビス・コステロ日本公演の前座を務めました。

 鮎川:そのステージを高橋幸宏が見て、「シーナの歌、いいよ」っち細野晴臣さんに紹介してくれた。ステージを見て、風を感じてくれたんやと思う。

 ユカイ:本当に運命の出会いというか、マジックですね。YMOとそこで結びつくなんて。

 鮎川:シーナが結びつけてくれたんやね。YMOがアルファレコードから1枚目のアルバムを出した(1978年11月)すぐ後、YMOの六本木ピットインのライブ(78年12月)に細野さんが呼んでくれて、ステージで「デイ・トリッパー」とかやってね。俺たちは既に別のレコード会社でシングル「涙のハイウェイ」を出して(78年10月)、アルバムを作りおったんやけど、細野さんが「アルファでもう一枚作ろうよ」ち言うてくれて、アルファレコードと契約することになった。

 ユカイ:そういう経緯でしたか。YMOの2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」(79年9月発売)では、「デイ・トリッパー」などでギターを弾いてます。

 鮎川:高校生の時、農家の納屋で初めて弾いた曲やね。そのすぐ後、10月に細野さんがプロデュースした僕らのアルバム「真空パック」が出て、YMOの人気に火がついてたから、そのおこぼれもあって僕らのもけっこうな話題になって。

 ユカイ:いや、あれはすごいアルバムですよ。今から日本のロックをさかのぼりたい人は聴くべきですね。随分前にニューヨークのブリカー・ボブって有名なレコード店でフラフラしてたら、あのアルバムがあったんですよ。 

 鮎川:あー、ブリカー・ボブに! あの時は手探りで実験しながら、僕らもYMOも純粋に一番やりたいことを全部やった。売れるとかそういう要素は一切考えんと。

 ユカイ:ポップだしロックだし、当時として新しい音です。

 鮎川:細野さんがスタジオで面白いことをやって遊ぼうちね。実は俺はこんな音楽、みんながっかりするかもしれんち思っとった。パンクロックで出てきて、2枚目でピコピコとね。俺は自信がなかったんやけど、細野さんは「何言ってるんだ、鮎川君。面白いことやろうよ。誰もやってないことやろうよ」っちね。この言葉がロックやね。あれは細野さんなりのロックやった。

☆ダイアモンド・ユカイ=1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。最新ソロアルバム「The Best Respect Respect In Peace…」が発売中。

☆あゆかわ・まこと=1948年5月2日生まれ。福岡県出身。九州大学在学中から「サンハウス」で活躍。78年に妻シーナと「シーナ&ロケッツ」結成。以後ノンブランクで日本のロックをけん引。2015年シーナ死去後もバンドは継続。11月23日に下北沢でバースディライブ、11月29、30日に札幌で2デイズライブを開催する。来年、シーナの命日である2月14日に初のカバーアルバム「LIVE FOR TODAY!」と42周年記念BOX「LOVE BOX」の発売が決定!