昭和の青春ドラマ『俺たちの旅』が放送されてから半世紀――。今も多くの人に愛され続ける名作に“オメダ”役で知られる俳優の田中健(74)が再び帰ってきた。福岡県筑後市出身で、来年1月公開予定のシリーズ初映画『五十年目の俺たちの旅』に出演する。地元・福岡で、俳優人生やケーナ奏者としての活動、そして娘のために続けてきたお弁当作りへの思いを熱く語った。

(左から)秋野太作、田中健、中村雅俊、映画「俺たちの旅 十年目の再会」
(左から)秋野太作、田中健、中村雅俊、映画「俺たちの旅 十年目の再会」

あの電話がなければ今の自分はなかった

――どんな少年時代だった

 田中 意外と真面目でした(笑い)。勉強はあまりしていなかったけど、農家だったのでよく手伝いをしていた。一番はお茶づくりで春から秋にかけて4回も収穫があって、とても大変でしたね。田植えや稲刈り、野菜の収穫も含め、農繁期は朝から晩まで大人と一緒に働いていた。当時は子どもが農作業をするのも当たり前で、遊ぶ時間より手伝いの方が多かった気がする。

――高校時代はバンドを

 田中 ブラスバンドでトランペットを吹いていて、目立ちたがりだったのでバンドにも誘われて、そこから音楽にのめり込んだ。ベースを担当して仲間と夢中で練習していた。

――高校卒業後の進路は

 田中 上京して、最初は「あおい健」という名前で日本コロムビアから歌手デビューした。でも1年ほどで事務所が倒産してしまい、もう地元に帰ろうと思って荷物をまとめていたところに、コロムビア時代のディレクターから電話があって。「映画監督の斎藤耕一さんに会ってみろ」と言われ、恐る恐る会いに行ったら「役者をやってみたらどうだ」と言われた。あの電話がなければ今の自分はなかったと思う。

50年後の奇跡

――『俺たちの旅』が始まった当時は

 田中 とにかく忙しかった。セリフを覚えるのも大変で、現場に立つのが怖いくらいだった。当時は映画やドラマのオーディションも多く、応募すればほぼ受かる状況で、スケジュール帳は真っ黒。映画で主役をやると責任も重く、慣れていない分プレッシャーも大きくて、本当に大変だったのを覚えている。

51年前の中村雅俊(1974年)
51年前の中村雅俊(1974年)

――中谷隆夫のオメダという役をどう捉えた

 田中 最初は必死でこなすだけだった。もともと得意分野でもなく、自分に務まるのか不安でしたね。でも50年たってこんなにも愛されていた役だったと知って、正直驚いています。当時はそこまで意識していなかったので、自分でも不思議な気持ち。

――今回、50年目の作品が映画となって実現した

 田中 やらせてもらえることが、まずうれしかった。『俺たちの旅』は10年目、20年目、30年目と続いてきたが、40年目は監督が亡くなってできなかった。それが50年目になって脚本の鎌田敏夫さんが「またやりたい」と言ってくださって、主演の津村浩介(カースケ)役・中村雅俊さんも「締めくくりに少し切ない物語を作りたい」と強く望んでいたことで、今回映画という形で実現した。同じメンバーで再び集まれるなんて、奇跡だと思う。50年という時間の重みを感じながらの撮影だった。

――撮影現場の雰囲気は

 田中 カースケ役の中村さんは今回が初監督でしたが、とても責任感を持って取り組んでいた。これまでのドラマ映像も盛り込みながら、過去と現在をつなぐ構成に仕上がっていて、「みんながどういう顔をして見てくれるか」が一番不安だったみたい。監督という立場の大変さを改めて感じた。ベテランも新人も関係なく、一体になっていたのが印象に残っている。

――オメダの妹・中谷真弓役の岡田奈々や、熊沢伸六(グズ六)役の秋野太作と再会した

 田中 奈々ちゃんは50年たってもずっと妹のよう。初めて会った時はセーラー服姿だったが、その印象は今も変わらない。秋野さんは作品をどうよくするかを常に考えていて、現場でもその真剣さが伝わってくる。監督も「秋野さんがいるからやれている」と言っていた。仲間に恵まれたと思うし、支えてもらってきたことを改めて実感した。

――演じていて、自分自身とオメダ像が重なる部分や、若い世代に伝えたいことは

 田中 年齢を重ねて、人との支え合いの大切さをより感じるようになった。『俺たちの旅』の3人も、わがままに生きながらも互いに助け合って前に進んでいく。その姿に、今の若い世代にも通じるものがあると思う。自分一人ではできないことも、仲間がいれば乗り越えられる。50年たってなお、そのメッセージは変わらないと感じている。

娘のお弁当作りが日課

――娘さんのお弁当作りを続けている

 田中 コロナ禍で舞台や仕事が一気になくなってしまい、家で過ごす時間が増えた。そのままでは気持ちが沈みそうだったので「毎日責任を持ってやることをつくろう」と思ったのがきっかけ。最初は妻に教わりながらでしたが、今は一人でも作れます。ブログに載せるので、見た目や彩り、栄養バランスにも気を配っています。

――NHK「きょうの料理」にも出演した

 田中 とても光栄でした。あの番組は長年続いていて、プロの料理人でもなかなか出られない番組ですから。まさか自分が出演できるとは思っていなかったし、「やってきたことがちゃんと形になった」と感じられてうれしかった。娘は特に何も言いませんでしたけど(笑い)。

――今後は

 田中 娘が高校を来春卒業したら、お弁当作りも終わる予定。毎朝4時起きで犬の散歩をして、7時半までに仕上げるのは大変でした。少しホッとする反面、やっぱり寂しさもあります。毎日のお弁当作りを通して、家族と向き合う時間ができた気がします。

――ケーナに出会ったきっかけは

 田中 34歳の時、南米を旅していた際にマチュピチュで吹いている人を見かけて「なんだろう」と思ったのがきっかけ。ブラスバンドをやっていたので抵抗もなく、吹いてみたら面白くて、そこからのめり込んでいった。「日本一にならなきゃ意味がない」と思って、最初の10年は毎日練習したし、今もほぼ毎日吹いている。

ケーナを演奏する田中健
ケーナを演奏する田中健

――ケーナの活動は俳優業にもプラスか

 田中 あると思う。音色が柔らかくなったと言われるし、「不思議なことをやる人だ」と言われるようにもなった。二刀流のように活動することで、自分自身の幅も広がったと感じる。最初に吹いたマチュピチュで、満月の夜にもう一度吹いてみたいという夢もまだどこかにある。

――俳優として大切にしていることは

 田中 感謝です。若い頃と価値観はあまり変わっていない。むしろ考えすぎず自然体で、人のためになることを意識して演じている。

――これまでに壁を感じたことは

 田中 『俺たちの旅』の頃ですね。現場は楽しかったけれど芝居は苦しくて、納得できないまま撮影に臨む日もあった。秋野さんや中村さんにすごく助けられていたし、抵抗せずに受け止めたのが良かったのだと思う。

――若い俳優と共演する際に伝えたいことは

 田中 まず基礎を大事にしてほしいですね。舞台は同じ芝居を何度も繰り返すので、ものすごく勉強になる。芝居に対する考え方や姿勢が自然と身につくし、やっぱり舞台をきちんとやっている人は役者としても残っていく気がします。

――地元・福岡での取材で、久しぶりに帰ってきてどうですか

 田中 やっぱり懐かしいですね。昔この辺に住んでいて歩いてみたけど、50年前の店はもうほとんど残っていなかった。バンド帰りに朝までやっていた屋台で食べた天ぷらや鍋物は忘れられません。今はそういう場所も少なくなってしまって寂しいですね。

☆たなか・けん 1951年3月6日生まれ、福岡県筑後市出身。72年に「あおい健」として歌手デビュー後、俳優へ転身。75年に映画『青春の門』で注目され、同年のテレビドラマ『俺たちの旅』でオメダ役を演じ人気を博す。作品はシリーズ化され大ヒット。以降、ドラマ・映画・舞台で幅広く活躍し、NHK大河ドラマにも出演。南米の笛ケーナ奏者として日本で三本指に入る腕前でも知られ、アルバムを多数リリース。