【女子ボートレーサー・インタビュー 日隈茜(23=福岡)前編】
――前職は養護教諭だった
日隈 高校の保健室の先生として働いていました。保育士の免許も取っていたけど、学校の方がいいなと思って養護教諭を選びました。
――ボートレーサーを目指したきっかけは
日隈 働き始めた時にコロナ禍で行くところもなくて、遊びたいのに遊ぶ場所もなかったんです。でも、ボートレースだけはやっていたので、友達とか先輩と行ったのがきっかけです。初めて見た時にかっこいいなって思っていました。もともとバドミントンをやっていて、こういうスポーツもあるんだと知って、最初は見るのが好きでした。養護教諭も楽しかったけど、違う道にも行ってみたいなと思っていた。その時に好きだったボートレースを見ながら「ボートレーサーっていいな」と思うようになりました。
――ボートレーサーになるための準備は
日隈 働きながら勉強はしました。朝早く起きて出勤前に勉強したり、仕事終わりはパーソナルのジムに1時間半くらい行って、夜中も勉強していました。中学の勉強は覚えていなかったので、参考書とかドリルとかでめっちゃ勉強しました。
――試験の手応えは
日隈 ほとんど解けなかったけど、運かも…(笑い)。あんな難しい問題で「誰がこんなもん解けるんだ!」て思ってました。1回で受かったけど、受かってるなんて実感もなかったですね。
――養護教諭を辞める時に周りに相談は
日隈 養成所に行って半分くらいは落ちるので、落とされることも考えて言えずにいました。仲が良かった先輩の先生とかには言ったけど、生徒たちには「私情」という理由で辞めちゃったので、それは申し訳ないと思っています。養護教諭をしていたボートレーサーとして、自分の顔を見て分かっている生徒たちもいると思う。ボートレーサーを目指してくれたり、自分のやりたいことができればいいかなと思っています。
――養成所の思い出は
日隈 養成員の時に2次試験で来た子が教え子で「え、先生?」って言われて…。初めて教え子と遭遇したのが一番の思い出ですね。生活に慣れるのがキツかったけど、辞めたいと思ったことはなかったです。同期の仲が良くて一致団結して、みんなで励まし合いながらだったので楽しかったです。
――つらかったことは
日隈 半年間帰れないし、外に出られないっていうのが一番、つらかったです。週末に親とかに電話した時に「帰りたいな」とか思ってしまうこともありましたね。
――みんなのお姉さんのような存在だった
日隈 全然そんなことなかったです。最初は真面目そうと思われがちだけど、話すと「天然」とか「抜けてるね」と、よく言われます。勉強を教えてとかはなかったし、恋愛話はよくしていましたね(笑い)。
――2024年11月19日に福岡でデビューしてから1年3か月
日隈 先輩にいっぱいお世話になって、いろんなことを教えてもらっています。まだ納得するレースができていないし、自分が思ってるレースができないっていうのが一番、悔しいです。どこかを変えないといけないのは分かっているので、もっと練習をして、自分の納得できるレースができればいいんですけどね。まだ結果を出せていないし、応援してくれている人に恩返しが全然できていないですね。
――師匠は
日隈 渡辺浩司さんです。めっちゃうまいし、練習も付き合ってくれるので、いろんなことを聞いて強くなりたいです。
――渡辺浩司選手を選んだ理由は
日隈 地元が一緒(大分)で、養成所を出た時からお願いしようと思っていたけど「男子と女子の差とかペラもいろいろあるし、もう少し様子を見てもいいんじゃない」と言ってもらいました。でも、同じ節になってやっぱり浩司さんがいいなと思って、レース後にご飯に誘ってお願いしました。
――指導の内容は
日隈 ペラというよりはターンとかですね。レースも毎回見てくれていて改善しないといけないところをたくさん教えてくれています。最近は忙しそうなので、あまり練習には一緒に行けていないです。













