【取材の裏側 現場ノート】最近、記事内で「多様性」という言葉をよく見かける。肌感覚としては、昨年の東京五輪前に組織委員会の森喜朗前会長が〝女性蔑視発言〟で辞任したころから急激に増え、新型コロナウイルス感染拡大と歩を合わせて「ジェンダー平等」「多様性と調和」のムードは世の中に広がっていった気がする。
先日行われたWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチで、5度目の防衛を果たした同級王者・井岡一翔(志成)の〝タトゥー問題〟が再びクローズアップされた。日本ボクシングコミッション(JBC)のルールでは、日本人に限って「入れ墨など観客に不快の念を与える風体の者」は試合で出られない。井岡は左腕と胸を白い塗装で隠したが、対戦相手のドニー・ニエテス(フィリピン)は外国人のため入れ墨はOK。井岡だけ隠し、相手は「和彫り」を隠さずリングに立つ矛盾が生じてしまった。
この状況について、記者は幅広く意見を集めた。すると一定数の人が「日本もタトゥーを容認すべき」とルール撤廃を主張しており、その論拠に使われた言葉が「多様性」「ダイバーシティー」だった。しかし、どうだろうか。一般的に「多様性」とは、障がい者や性的マイノリティーなど社会的に弱い立場の方たちに目を向け、調和を図ろうという文脈で使われることが多い。
今の日本ボクシング界において、入れ墨やタトゥーを「多様性」という言葉をもって認めることに違和感を覚えてしまう。むしろ平等にするのであれば、海外の選手に対して「日本のリングでは入れ墨はNG」と毅然とした態度を取るべきだろう。郷に入っては郷に従え――。多様性を認めるだけではなく、日本の文化や風潮を「多様性」として相手国に受け入れてもらうことも重要ではないか。これはプールや銭湯にもいえることだ。
昨年、東京五輪ボクシング女子フェザー級金メダルの入江聖奈(日体大)と「タトゥー問題」について話したことがある。海外のアマチュアボクサーでもタトゥーを入れている人が多いというが、彼女は「タトゥーを見た時にオシャレと思うか、怖いって感じるか。日本ではまだ後者のほうが多いと思う」と感想を述べ、最後に「多様性の押し付けが多様性の否定につながることもある」と私見を語った。
やはり「多様性」の乱発は危険だ。このワードが、少数派意見を強行的に押し通すための〝印籠〟にならないことを祈る。
(ボクシング担当・江川佳孝)












