【取材の裏側 現場ノート】約20年の記者人生で、ここまで取材相手に引き込まれたのは初めてだった。

 今年1月、元WBC世界バンタム級王者の辰吉丈一郎(51)を取材した。大阪帝拳ジムの近くの喫茶店。白のジャージー姿で現れた辰吉に「答えづらいことも聞くかもしれません」と伝えると「どうぞお構いなく。受けた以上、ボロカスに書かれることも覚悟しとるから」と笑った。ちゃんと書いてよ…と言われるより身が引き締まる〝魔法の言葉〟だった。

 現役を続ける辰吉は「再び世界王者になる」という信念を抱く。男手ひとつで育ててくれた父・粂二さん(享年52)は1999年1月に他界。「父ちゃんはまだお墓に入っていない。ボクがチャンピオンになるまでは家におってほしくてね」。遺骨は今も自宅にある。ベルトを巻いて引退したら安心して納骨。その日まで、早朝ロードワークも過酷なトレーニングもやめることはできない。

 15日、辰吉は父が亡くなった年齢になる。ふと、疑問が浮かんだ。粂二さんとの思い出は何度も聞いたが、物心つく前に姿を消し、顔も名前も知らない母親へはどんな気持ちを抱いているのか。そう問うと――。

「産んでくれてホンマに感謝している。この思いは昔からずっと変わっていませんよ。会った記憶もないし、今どこにおるか分からんけど、おふくろがいなかったらボクはこの世にいないから」

 妻・るみさんの出産には病室で立ち会った。頭が出てくる瞬間を見て人生観が一変したという。

「あれで世の中の女性を見る目が変わった。どんな思いで人を産んでいるのか。男はなんぼ力があっても絶対にマネできない。ホンマ、女性には勝たれへんわ」

 取材を終えると、記者を喫茶店の外まで見送ってくれた。背中に視線を感じながら100メートルほど直進。大通りから横道に曲がる際に振り返ると、店の前で頭を深々と下げていた。

 プロ通算20勝(14KO)7敗1分け。成績で上回るボクサーは何人もいるが、辰吉がなぜレジェンドと言われるかが分かった。

(ボクシング担当・江川佳孝)