【昭和ロックを語る時が来た】米兵がケンカ始めてもゴールデン・カップスは平然と演奏

2020年03月07日 10時00分

本牧の伝説的なライブハウス「ゴールデンカップ」の思い出をユカイに語るキャシー中島

【ダイアモンド☆ユカイ 昭和ロックを語る時が来た】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(57)が、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。横浜育ちのキャシー中島(68)と、本牧の米軍接収地周辺の当時の音楽事情を語ります。

 ユカイ:前回、横浜の大岡川のほとりで練習していた、後のゴールデン・カップスのメンバーと仲良くなったという話でした。すてきな声のボーカルというのは…。

 キャシー:そう、デイヴ平尾。カップスのボーカルになった人です。何回か練習した後、「俺たち、ゴールデンカップでやるんだ。専属バンドで。キャシー、遊びに来る? いくつだっけ」って聞かれて「15歳」って答えたら、「まだ無理だね」って。

 ユカイ:ゴールデン・カップスは、「全員ハーフ」をうたっていて、ルックスが良かったじゃないですか。目立ってたんじゃないですか?

 キャシー:私、きれいな男には興味がないから(笑い)。デイヴ平尾は本名が平尾時宗。日本人なのにハーフってことで出てきて、「なんのハーフだろう?」と思ってた(笑い)。

 ユカイ:ゴールデンカップには行ったんですか?

 キャシー:本牧に住んでいた友達がいて「一緒に行こう。じゃあミニスカだよね」って。女の子はファッションから入るからね。でもお金ないから、普通のスカートを切って自分で縫って、高いサンダル履いて「18歳です」ってウソついて入りました。私、ハーフだから見た目が大人っぽかったしね。

 ――怖い米兵がたむろしていて、それを見たスパイダースは近くまで来て入らず帰ったという話でしたが、大丈夫だったんですか

 キャシー:アメリカ人だから、女の子には優しいのよ。ただ、通ってるうちに、何度も激しいケンカに遭遇したわ。私たちがコーク飲んでたら…、私、味が嫌いでお酒は飲まなかったんだけど、横で米兵の殴り合いが始まるの。彼ら体格がいいし鍛えているから、すごい迫力。血しぶきとか飛んでるんだけど、カップスはそんなことがあってもずっと演奏してたの。殴られた人がステージに転がってきても、マー坊(ルイズルイス加部)なんかアンプの上に座って平然とベースを弾いてた。

 ユカイ:ビートルズのハンブルク時代みたいですね。港町で客は気性が荒い船員たち。目の前でケンカを始めても、ジョンたちは平然と演奏していたって。

 キャシー 本当にそうなの。そのままです。あのお店ではケンカだけじゃなく、悲しい別れもあってね。私の友達でリンダって子がいて、彼氏が兵隊さんで明日ベトナムに行っちゃう最後の日、ずっと2人でチークを踊ってたんですよ。カップスが「青い影」を演奏してね。

 ユカイ:プロコル・ハルムの1967年のヒット曲ですね。

 キャシー:お店の営業時間が終わっても、2人はずっとチークを踊ってるの。でもマスターの上西四郎さんはグラスを拭いていて、何も言わない。だから聞いたの。「もう終わりだよね?」って。するとマスターは「キャシーは早く帰りなよ。ママから12時には帰してって電話もらってるから」。でもまだみんないるし、帰りたくないじゃない。だからもう一度「終わりじゃないの?」と聞いたの。そしたら「いいんだよ。今日は朝までだ」。カップスは2人のために演奏を続けてたわ。

 ユカイ:まるで映画の一場面ですね。

 キャシー:リンダは彼と泣きながら別れて、後で聞いたら、彼は死んだって。映画じゃなく、現実なの。本牧にいた私たちにとって、ベトナム戦争はすぐ横にある現実でした。

 ユカイ:今から考えられないけど、当時の横浜・本牧は戦争や死が近くにあったわけですね。カップスはそんな環境で鍛えられたから、他のGSとは雰囲気が違ったのかもしれないですね。

☆きゃしー・なかじま=1952年2月6日生まれ。米国・ハワイ出身。3歳のころから日本に拠点を移し、69年にCMモデルとしてデビュー。歌手、テレビタレントとして活躍する。72年からパッチワークを始める。79年に俳優の勝野洋と結婚。静岡県御殿場市に移住し、87年に同市にパッチワークの教室をオープン。現在はタレントとして活動する一方、全国に6店舗のキルトスタジオを開き、後進の指導に励んでいる。

☆ダイアモンド・ユカイ=1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。最新ソロアルバム「The Best Respect Respect In Peace…」が発売中。