志村けんさん(享年70)が亡くなって、来月で1年がたつ。1994年から2001年までの7年間、志村さんの付き人を務めた芸人・乾き亭げそ太郎(50)は志村さんとの思い出をつづった本「我が師・志村けん 僕が『笑いの王様』から学んだこと」(集英社インターナショナル)を26日に出版する。本紙のインタビューに応じ、付き人から見た志村さんの日常や、あの“事件”まで全てを告白した。天才コメディアンの“素顔”とは――。

 日本中が悲しみに暮れた訃報から間もなく1年。「お墓参りも行ったし、毎日志村さんにお酒をついで、寝る前に『いただきます』と言って飲んだりしているんですけど、もういないんだという実感は湧いてないですね」

 付き人になるにあたって、志村さんからは「お笑いは正解がないから、何も教えることはできないよ」と言われた。それでもコントの中での二度見やつまずき方を教えてもらったことがある。「僕だけだと思いますよ」と胸を張った。

 げそ太郎から見た志村さんは「物静かでシャイな人です。面と向かってありがとうな、とか言われたことはほとんどない。ただうちの両親が来た時には僕の舞台の出番を増やしてくれたり、(げそ太郎の住む)鹿児島に来た時には急に僕の出番をつくってくれたり、ふいな優しさを出すので、ずるいなと思っちゃうんですよね」。

 コントに全てを注いだ人だった。そのため仕事終わりには「クールダウンしないと家に帰って寝られない」と毎晩のように飲みに行った。帰宅が朝方になっても、志村さんは必ず映画やドラマをチェックしていたという。「コントに使えるものがないか、ヒントを探していたのだと思います。本当にいつ寝ているんだろうという感じでした。移動の時も寝ないので、僕も寝られない(苦笑)」

 一方で、健康には気を使い、医者の言うことはよく聞いた。「健康番組を見て、きなこ牛乳がいいとかあると毎朝のように飲んでました」

 独身を貫いたのもコントが第一だったから。「結婚願望はありましたよ。別居婚みたいなのが理想だったので、それでいいという女性もなかなかいない。やっぱり仕事が第一でしたので」

 1996年、志村さんの“死亡説”が流れ、世の中が大騒ぎになったことがある。実は志村さん本人に、この第一報を伝えたのはげそ太郎だった。「マネジャーから死亡説が流れて、記者が探していると連絡を受けました。麻布十番で食事をしている志村さんのところに行って、『すいません、志村さんの死亡説が流れています』と言ったら、キョトンとした顔で『えっ、オレ死んじゃったの?』って。今もその時の表情と言い方が頭に残っています」

 志村さんと最後に会ったのは2019年夏。舞台「志村魂」の大阪公演を訪れた。「『おお、来たか』と笑いかけてくれたのですが、それが僕にとっては衝撃的でした。僕を見ても笑顔で迎えてくれることはほとんどなかったので。志村さんは人見知りなので、しばらく会わないとまるで初対面のような感覚になります。お付きの人に写真を撮りますか、と言われたんですけど、それ以上変なことをするのが怖かったので撮らなかったのです。写真が苦手と知っていましたので、今となってはすごい後悔です」

 付き人として3年がたち、芸人として独り立ちすべく辞めたいと志村さんに伝えた。その時の答えはノー。その理由として、時間がないことを言い訳に笑いの研さんを積んでこなかったことを挙げられた。「『状況のせいにして何もやってないお前はどこにいってもやらないよ』と言われたことは今でも大切にしています。どんな状況でもベストを尽くして自分を表現しようという教えは今も守っています」

 今も志村さんは、げそ太郎の胸の中で生きている。