【この人の哲学:林哲司氏編(完)】最近、海外で再評価されている「シティ・ポップス」の楽曲や「悲しい色やね」などの大ヒット曲を数々世に送り出した作曲家の林哲司氏(70)。最終回は林氏の音楽的なこだわり、そして自身の楽曲も人気を集めている海外でのシティ・ポップスブームについて語る。

 ――前回出た「ポップ×アート」について詳しく教えてください

 林氏:例えば「見上げてごらん夜の星を」や「上を向いて歩こう」のような誰もが知っている曲にも、よく聴くと「このコード使ってるのか!」と音楽家がハッとする部分があるんです。作曲の妙ですね。

 ――コードでそんな違いが出るんですか

 林氏:隠し味のスパイスのようなもので、ここにこのコードを使ったから曲の印象がこうなる、というのがあるんですね。一般の方は気が付かなくても、音楽家はニヤっとします(笑い)。オメガではよくそういう技を込めて曲を作りました。例えばFm(エフマイナー)でいいところに、あえてFm9th(エフマイナーナインス)やFm11th(エフマイナーイレブンス)を入れて響きの違いを出すんです。

 ――全く気付いたことがありません…

 林氏:わからなくていいんですよ。「このコード使ってましたね」と言われたいんじゃなく、聴いている人がそれで生まれる響きに「なんかイイ!」と酔ってくれればいいんです。

 ――なるほど! オメガなど林さんが1980年代に手掛けた曲が「シティ・ポップス」として海外で評価されています。なぜだと思いますか

 林氏:なぜかというのは、正直わかりません。無理に分析するなら、世界的にラップのブームがずっと続いて、メロディーを重視する傾向がなかったですよね。80年代の日本の曲は、当時のメロディアスな英米のポップスを一種の“教科書”にしていましたから、海外にそういう曲がない今、求める人たちに響いているんじゃないですか。

 ――当時、どのような曲を好んでましたか

 林氏:いわゆる「AOR」ですね。ボズ・スキャッグスとか。デイヴィッド・フォスターが作る音楽は、音楽性が高いしメロディアスで魅了されました。日本は受け入れて消化し自分たちなりの形を作るのが得意な国ですから、そうやって生まれた曲が今、向こうで受け入れられているのでしょう。

 ――洋楽の影響を受けた日本産の楽曲が“出身地”に戻って愛好されているわけですね

 林氏:日本が海外の文化を受け入れるという点で言えば、若い時に聴いていたラジオがとても良かったんですよ。まだセグメント分けがしっかりできてなくて、ひとつのチャート番組でポップスもシャンソンもカンツォーネも映画音楽もインストゥルメンタルもごっちゃになってかかってました。好きなアーティストは何位かと聴き始めると、いろんな音楽が自然に耳に入ってきたんです。

 ――今より多様ですね

 林氏:僕は映画も好きで、映画音楽もやってきたんですが、監督の「ボサノバで」「ケルトで」といった要求に応える時、そういう音楽を体に入れてきたかどうかで表現が変わってきます。僕らの世代は幅広く対応できる人が多いと思う。ラジオを聴く中で、意図せずとも未知の音楽に触れられ、世界が広がったからです。聴いて「好きだな」と思ったメロディーが蓄積され、自分の血や肉となっていきました。

 ――最後にこれからのことを聞かせてください

 林氏:僕はクリエーティビティーはなくならないと思っています。音楽に限らず良い物を見ると刺激を受け、自分もできるかなとメラメラ燃えてくるんです(笑い)。やりたいことは山ほどあるから、それらを実現する体力を維持するために、プールやジムに通っています。僕の場合は作るだけじゃなく、送り手としてライブもやりますから、お客さんが喜んでくれる顔を見られるのが本当にうれしい。今の状況が落ち着いたら、「ソング・ファイル・ライブ」や「バンド・エイト」のステージでお会いしましょう。(終わり)

★プロフィル=はやし・てつじ 1949年8月20日生まれ。静岡県出身。72年にチリ音楽祭で入賞。翌年シンガー・ソングライターとしてデビュー。作曲家として77年に「スカイ・ハイ」で知られる英国のバンド・ジグソーに「If I Have To Go Away」を提供。松原みきの「真夜中のドア~Stay With Me」(79年)、上田正樹の「悲しい色やね」(82年)、杏里の「悲しみがとまらない」(83年)、中森明菜の「北ウイング」(84年)、杉山清貴&オメガトライブの「ふたりの夏物語」(85年)ほか数々のヒット曲を送り出している。自ら監修した「杉山清貴&オメガトライブ 7inch Singles Box」が発売中。