【この人の哲学:林哲司氏編(8)】最近、海外で再評価されている「シティ・ポップス」の楽曲や「悲しい色やね」などの大ヒット曲を数々世に送り出した作曲家の林哲司氏(70)。今回は一世を風靡した「杉山清貴&オメガトライブ」誕生秘話。幻のデビュー曲、そして裏にいた仕掛け人の巧みな戦略とは?

 ――「悲しい色やね」を作詞した康珍化さんとは、「杉山清貴&オメガトライブ」でも「サマー・サスピション」(1983年)や「ふたりの夏物語」(85年)などのヒット曲を生み出し、サザンオールスターズとは別の“夏の海サウンド”を確立しました。オメガトライブのことを聞かせてください

 林氏:これはね、藤田浩一さんという、音楽制作に対して“狂気”と言ってもいいぐらい特異なエネルギーを持ったプロデューサーがいましてね。オメガはもともと、デビューしたVAPとは別のレコード会社で話を進めていたんです。僕はそのレコード会社のディレクターに藤田さんを紹介され、関わるようになりました。最初はまだ具体的なイメージがあったわけではなく、藤田さんと僕と康さんのトライアングルで走りながら考えていった感じです。

 ――藤田浩一さんはGSの「アウト・キャスト」の元メンバーで、脱退後はトライアングルプロダクション社長としてレイジーや角松敏生をプロデュース。その後に手掛けたのがオメガトライブでした。2009年に亡くなっています。最初からああいう音楽性ではなかったんですか

 林氏:違いましたね。幸いデビュー曲の「サマー・サスピション」からヒットしましたが、実はこの前に別の曲をレコーディングしてたんです。僕が書いた「海風通信」と「A.D.1959」です。

 ――幻のデビュー曲!?

 林氏:藤田さんから事前に曲についての指示はなく、彼らのキャリアからウエストコースト系のロックバンドをイメージして曲を書きました。例えばジャーニーとかオーリアンズですね。レコーディング後、藤田さんが「もっと哀愁があって日本ぽいのをやりたい」と言ってその曲はいったんペンディングに。実際に杉山君の声であがった作品を聴き、藤田さんの頭の中に具体的な方向性や世界観が見えたんでしょうね。

 ――林さんが提案した2曲が一種の“軸”になって、バンドのイメージが固まっていったんですね。“海”のイメージが入ったのはなぜでしょう

 林氏:80年代の若者文化に、「海」のイメージは外せなかったでしょ。雑誌「ポパイ」や「ブルータス」が示すハワイやLAの海岸への憧れや、健康的な海志向みたいなもの。それを藤田さんのコンセプトと、康さんの詞がとらえたんです。藤田さんは、サザンの「海の家」的な日本の海のイメージとは違う、「都会的」で「リゾート」感がある海を意識してたと思うんです。一方、康さんはそのイメージを言葉に落とし込むために、湘南までバイクで行ってイメージ・ハンティングしたんですよ。

 ――確かにアーバン(都会的)な海のイメージでした

 林氏:もうひとつ重要なのが、ビジュアル面の戦略です。他に例がないわけではないけれど、革新的だったのは、バンドメンバーがレコードジャケットに登場しなかったこと。シングルもアルバムも、ジャケットは海のビジュアルを前面に出していました。ある種、洋盤のように。こういうところが藤田さんがプロデューサーとして優れていたところです。

 ――考えてみれば「杉山清貴&オメガトライブ」というバンド名も斬新でした。もともとは「きゅうてぃぱんちょす」ですね

 林氏:わざわざボーカルの名前を出さず、単に「オメガトライブ」でいいですよね。実は藤田さんは、後に解散が決まった時、そのダメージをネガティブにとらえるのではなく、杉山清貴、オメガトライブの2アーティストに分離できると勝算を得たようでした。本当に大した方でしたよ。

★プロフィル=はやし・てつじ 1949年8月20日生まれ。静岡県出身。72年にチリ音楽祭で入賞。翌年シンガー・ソングライターとしてデビュー。作曲家として77年に「スカイ・ハイ」で知られる英国のバンド・ジグソーに「If I Have To Go Away」を提供。松原みきの「真夜中のドア~Stay With Me」(79年)、上田正樹の「悲しい色やね」(82年)、杏里の「悲しみがとまらない」(83年)、中森明菜の「北ウイング」(84年)、杉山清貴&オメガトライブの「ふたりの夏物語」(85年)ほか数々のヒット曲を送り出している。自ら監修した「杉山清貴&オメガトライブ 7inch Singles Box」が発売中。