【この人の哲学】林哲司氏 音楽家になる気なく好きでやっていた

2020年05月25日 09時00分

高校時代を振り返る林氏

【この人の哲学:林哲司氏編(4)】最近、海外で再評価されている「シティ・ポップス」の楽曲や「悲しい色やね」などの大ヒット曲を数々世に送り出した作曲家の林哲司氏(70)。林氏はどのような人生を歩んでヒットメーカーになったのか。人生を変えた言葉や出会いとは?

 ――作曲を始めたきっかけは加山雄三さんだったんですか!

 林氏:高校1年生で入ったバンドは、既成の曲を演奏するばかりでしたが、そうじゃない世界があると知ったんです。そこで自分で曲を作って教室で演奏したら、みんな「凄い!スゴイ!」と言ってくれ、いい気になって(笑い)、曲を作る楽しさを知ったんです。

 ――原体験ですね

 林氏:そうです。あのころは詞も自分で書いてました。ホレたハレたの世界を詞にして、書いた紙を食卓に置き忘れ、翌朝家族に見られる、という恥ずかしい“事件”もありました(笑い)。

 ――曲を生み出すのは大変じゃなかったですか

 林氏:プロになってからは大変なこともありましたが、当時は曲を書くのが楽しくてしょうがなかったです。そのころ、3年生の先輩は受験があるからバンドを辞め、ひとりだけ残された僕はサッカー部に入ったんです。でも音楽はやりたいから、サッカー部の練習が終わって、家に帰って夕飯を食べた後に曲を作ってました。毎日毎日、勉強もせずに(笑い)、曲を作ってはオープンリールに吹き込み、高校3年間で200曲ぐらい作りました。

 ――プロになってからそのころの曲を活用したことは

 林氏:練習曲みたいな曲ばかりですから、それはないです。ただ、いま振り返ると、毎日曲を作っていたことは、アスリートでいえば基礎トレーニングを積み重ねたようなもので、あの体験がすごく良かったんです。当時の自分なりに、次はアプローチをこう変えようとか、毎回工夫をしながら曲を作っていました。後々、一日に何曲作れ!と言われてもできたのは、あの経験が生きたと思います。

 ――ご両親の反応は

 林氏:やばかったですね。作曲への熱と反比例して成績が落ちていきましたから(笑い)。

 ――高校時代からプロの作曲家になろうと思っていたんですか

 林氏:みじんも考えてなかったです。そして、なったいま思うのは、本当に親に感謝しないといけない、ということですね。例えば僕は自分の子が「作曲家になる」と言ったら、「好きなものを目指すのはいいけれど、こんな安定しない仕事はやめた方がいいと思うよ」と言うでしょうね。あのころの僕は、そういう将来への不安を感じることもなく、自然体で音楽を受け入れ、なすがままに音楽の世界へ導かれたという感覚でした。そのように歩めたのは本当に幸せです。

 ――高校時代など10代に好きなことをやることはやはり大切ですか

 林氏:これは理屈じゃないと思いますね。例えば建築家になる人は、建物好きだな、かっこいいなという感覚がまずあってその世界に導かれ、建物を見に行き、いろいろ見て回る中で建築家になろうと考えるようになりますね。

 ――出てきた“芽”を大切に育てる時ですね。その時に伸ばすか否かで将来が変わる

 林氏:順調に伸びても、いつか自分がその仕事で生活できるのか、という現実にぶつかる時がきます。好きだけどやめるのか、きつくてもやるとなるのか。そこが大きな分かれ道。

 ――林さんの分かれ道は…

 林氏:大学に入ってからも音楽はやめず、郷里の友人とバンドをやったり、仲間が企画したフォークライブに出させてもらったり、北山修さんのラジオ番組に曲を送って番組でかけてもらったりということはありましたが、「絶対音楽家になる!」というより、好きでやってる感覚でした。そんな時に“分かれ道”にぶつかったんですよ。大学に行ってないことが親にバレて、仕送りを止められ、「自分は音楽で食えるのか?」と突き付けられたんです。(続く)

★プロフィル=はやし・てつじ 1949年8月20日生まれ。静岡県出身。72年にチリ音楽祭で入賞。翌年シンガー・ソングライターとしてデビュー。作曲家として77年に「スカイ・ハイ」で知られる英国のバンド・ジグソーに「If I Have To Go Away」を提供。松原みきの「真夜中のドア~Stay With Me」(79年)、上田正樹の「悲しい色やね」(82年)、杏里の「悲しみがとまらない」(83年)、中森明菜の「北ウイング」(84年)、杉山清貴&オメガトライブの「ふたりの夏物語」(85年)ほか数々のヒット曲を送り出している。自ら監修した「杉山清貴&オメガトライブ 7inch Singles Box」が4月15日に発売された。

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