1964東京五輪“東洋の魔女”率いた鬼の大松 当時のエース・井戸川さんが明かす苛烈秘話

2018年03月04日 11時00分

本紙インタビューに答える井戸川さん

【東スポ2020現場最前線】2020年東京五輪・パラリンピックは前回の1964年大会を抜きには語れない。戦後復興と高度経済成長の真っただ中、16個の金メダルを獲得し、日本列島を熱狂させた。なかでも“東洋の魔女”バレーボール女子代表は別格。旧ソ連を破った決勝は視聴率66・8%を記録した。“鬼の大松”こと、故大松博文監督の超スパルタ指導は、果たしてどんなものだったのか。当時のエースアタッカーだった井戸川(旧姓谷田)絹子さん(78)に話を聞いた。

 大松監督は日紡貝塚チームを率い、やがて“東洋の魔女”に育て上げた。まだ高校生だった井戸川さんは日紡に入社する前から身構えていた。

 井戸川:四天王寺高校でバレーをやってたんですけど、毎週土日は必ず貝塚に預けられるんですね。練習が厳しいのは知っていたので「卒業したらバレーはやらない」と思っていました。

 ところが「1年」の約束で日紡に入社する話を聞いて驚いた。交渉していたのは母と兄だった。

 井戸川:親に初めて「アンタ」って言いました。しもたと思ったけど、しょうがない。「1年で帰らしてもらへんかったらどうする?」。結局、貝塚に7年いました。

 生活は朝8時に出勤して15時まで働き、そこからが練習だった。17時からは同じく仕事を終えた大松監督が合流した。激しい練習の毎日だったが、やられっぱなしだったわけではない。

 井戸川:五輪の1年前ぐらいからは朝まで練習でした。レシーブでしごかれてボールが大松先生の足元に転がっていくとそれを取りがてらに「バチーン」と先生の足を叩いたり、ボールをぶつけられたらぶつけ返したりね。どこかで気持ちを発散せないかんからね。

 大松監督は補欠はほったらかし。しごくのはもっぱらレギュラー6人だった。レシーブ練習は10本返して1セット。そこにはルールがあった。

 井戸川:ミスしたらマイナスなんです。パスで返してもマイナス。攻撃しないと。1回、マイナス100までいったことがある。もう気が遠くなりますよね。大松先生はちゃんと数えてる。だから朝5時、6時になったってやってますよ。

 怒られると、罰を受けた。最もこたえたのはレシーブの姿勢を取り続けることだった。

 井戸川:レシーブの姿勢して先生の横に立つんです。しんどいですよ。足は爪先、手は顔の前、ヒザは曲がってますでしょ。ブルブル震えますよ。今度は汗が出てくる。それがストーン、ストーンって下に落ちて床に汗がたまらないと大松先生は「ヨシ」と言ってくれないんですよ。

 いわゆる体罰もあった。高校までは個々に叩かれたが、日紡では連帯責任を負わされることも多かった。

 井戸川:一列に並んで、補欠の子も全部です。大松先生は平(手打ち)で、ゲンコツというのはなかった。あとはバケツに水いっぱい入れて両手に持って立たされたり、水かけられる。大松先生は一気にやらないんですよ。並んだら順番に水をかけられるんです。ここに(首裏と衣服の隙間)。どんなに気持ち悪いか。ヤカンでジャーッて流されていく。「貸してください」と言って自分でかぶりはった先輩もおりましたよ。

 通常はコートの外で水をかけられるが、こんなこともあった。

 井戸川:私はコートのド真ん中でかけられたんです。(疲労で)もう動けなかった。じーっとしてたら(水を)ジョバ!「何コレ」と思ったら頭から水をかけられた。その時は飛んで逃げました。部室に帰って濡れたまま、1時間半ぐらい和室で正座していました。

 大松監督の「鬼っぷり」を象徴するのが、盲腸の強制手術だ。病院と水面下で連携し、選手は何も説明されないまま、盲腸を切り落とされた。

 井戸川:入社したら順番に「はい、行ってきなさい」って病院に行かされる。知らずに行くでしょ。もう行って即、何にも(症状が)ないのに「ハイ、プチュ」って切られる。

 遠征先で腹痛を起こしたり欠場する影響を考えてのことだった。手術後も糸をつけて練習した。

 井戸川:主将の河西(昌枝)さんが糸をつけたまんま練習をやりだしたんですよ。だから宮本(恵美子)さんも3日ぐらいで退院してきて。そしたら、傷口が破裂したんですよ。縫ってもくっつかないから綿花のダンゴみたいの作ってグーッと傷口を押さえてテーピングで止めたんです。

 何とも壮絶すぎるエピソードだが、それだけバレーへの熱量があったということだろう。最後に2020年東京大会を目指す選手たちにこんなエールを送ってくれた。

 井戸川:私は今、ママさんバレーやってますよね。自分のためにやっているんです。五輪の時、大松先生は「オマエたちのためにやれ。国のためでもなければ、誰のためでもない。だから一生懸命頑張らないかんのだ」という教えだった。監督のために頑張ろうとか誰のために頑張ろうじゃなくて、自分のため。メダルが3つある。目指すのは1つですよね。それでいい思い出として残してもらいたいと思います。

【鬼の大松は仏の大松?】

 大松監督の練習は厳しかったが、常に鬼だったわけではない。選手たちが映画に誘うほど慕われていた。新聞に監督の好きな西部劇の映画広告が載ると、井戸川さんが監督と交渉。興味を示せば、夕方からチーム全員で難波の映画館に行った。

「練習は厳しいから鬼。でも、ボールを触ってなかったら普通のおじちゃんですからね。『みんなは鬼の大松だけど、ボクは仏の大松』って言ってはりましたよ」(井戸川さん)。映画館で選手のほとんどは寝ていたが、月1回程度の貴重なリラックスタイムとなった。

【プロフィル】いどかわ・きぬこ 1939年9月19日、大阪府出身。旧姓谷田。四天王寺高時代は高校三羽ガラスの一人。58年、日紡貝塚(大日本紡績貝塚工場チーム)に入社。61年には欧州遠征22連勝を果たす。62年世界選手権優勝。64年東京五輪では全試合に出場し、エースとして金メダル獲得に貢献した。現在は池田市でバレーの指導をしている。身長168センチ。