【ダイアモンド・ユカイの昭和ロックを語る時が来た】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(57)が、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。「シーナ&ロケッツ」のギタリスト、鮎川誠(71)が語る萩原健一さんとの秘話、そして「GSブーム」の影響とは? (隔週連載)
――1960年代後半、久留米の大きな体育館にテンプターズが来て、後に鮎川さんが加入するバンド・アタックと、他のバンドが原因でケンカになった…という話でした
ユカイ:ショーケンこと萩原健一さんが怒鳴り込んできて、どうなったんですか?
鮎川:アタックのメンバーは九州のもんやから、東京の言葉も気に入らん。「東京から来た連中が東京弁で偉そうなこと言いやがって」ち余計に腹が立ちよった。
ユカイ:当時は今よりも東京への対抗心が強かったかもしれないですね。ちなみに萩原さんは東京じゃなく、埼玉出身です。俺の実家の近く。
鮎川:そのショーケンが一番荒れとった。真っ先に文句言いに来て、口火を切ったのもショーケンやった。一触即発状態になって、俺はケンカとか好かんけん、どうしたもんかと見よったら、さすがに興行主が仲介に入った。あのころはまだ、ヤクザが仕切っとる時代でね。テンプターズは松崎由治さん、こっちは篠山哲雄さんと、ジェントルマンなリーダー同士が話して仲直りして。
ユカイ:萩原さんは納得したんですか?
鮎川:ずっとふてくされてたかもしれんね。
ユカイ:野性的ですね。相手がそういう人でも、自分の感情を収めない。そういうところが萩原さんらしくてかっこいいけど、険悪な空気が残ったんじゃないですか。
鮎川:まぁ、でもね、俺はうれしいんよね。ショーケンとのこういう思い出があるのが。テンプターズは血が通った生身のバンドやったね。
ユカイ:確かに、忘れられない特別な出来事ですね。それに“飼い慣らされない”ロックなバンドだったんですね。その後、萩原さんとその話は。
鮎川:内田裕也さんや菊池武夫さんと一緒に何度か会ったし、お酒も飲んだけど、この時の話はとうとうせずやった。いつかそういう話もしようと思っとるうちに、ね…。
ユカイ:亡くなって半年たつんですね。テンプターズは「GSブーム」(67~69年)の担い手のひとつでした。当時、鮎川さんはGSをどう見てましたか?
鮎川:最高やったよ。スパイダースもタイガースもテンプターズもゴールデンカップスも好きやった。松崎さんと井上堯之さん(スパイダース)みたいなギターヒーローがおったからね。テレビにかじりついて見よった。GSは僕らにものすごい刺激を与えてくれた。
ユカイ:GS以前のヒット曲を見ると、演歌と歌謡曲ばかりです。GSの登場は、日本の音楽のビートや音色を変え、年齢が近い鮎川さん世代にも影響を与えたんですね。ところで以前にこのコーナーで、森重樹一と「萩原さんと沢田研二さんこそ、昭和の歌謡界にいたロックスターだ」という話をしたことがありました。
鮎川:俺もその2人は憧れやったけど、シーナにとってはジュリーとショーケンは特別。神様みたいな存在やったよ。
ユカイ:沢田さんと接したことは?
鮎川:これはだいぶ後、「シーナ&ザ・ロケッツ」の3枚目のシングル「ベイビー・メイビー」(80年10月発売)でジュリーとテレビに出してもらった時があってね。ジュリーのバンドが生演奏するのは決まっとって、「生演奏は1組しかできません。シナロケはカラオケでやってください」ちなってね。
ユカイ:沢田さんはバンドの生演奏にこだわってましたからね。
鮎川:シーナは口パクもカラオケも全部おもしろがってやるし、俺らは気にせんから、「いいですよ」ちゅうてカラオケでやったんやけど、終わった後にジュリーが…。
――先が気になりますが続きは次回です
☆ダイアモンド・ユカイ=1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。レッズのライブ「SWINGIN’ DAZE 21st Century & The Greatest Hits」が10月12、13日メルパルクホール大阪、14日舞浜アンフィシアターで開催される。
☆あゆかわ・まこと=1948年5月2日生まれ。福岡県出身。九州大学在学中の70年からブルースバンド「サンハウス」で活躍。78年に妻シーナと「シーナ&ロケッツ」結成。海外デビューも果たし、国内外で37枚のアルバムを発表。2015年にシーナ死去後もバンドは継続。現在、鮎川誠の71歳を記念して、シーナ&ロケッツ“ROCK OF AGESツアー”を全国で開催中。バンド結成42周年目に突入する11月23日に下北沢ガーデンで「42回目のバースディライブ」を開催予定。