【ダイアモンド・ユカイの昭和ロックを語る時が来た】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(57)が、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。「シーナ&ロケッツ」のギタリスト、鮎川誠(71)が語る、ビートルズ来日が当時の高校生に与えた衝撃、そして影響とは?(隔週連載)

 ユカイ:FEN(日本在住の米軍向け放送)をきっかけにビートルズやストーンズにハマって、ギターを手にしたのはいつからですか?

 鮎川:実は最初にギター買ってもらったんは小学校5年の時やったけど、その時は2日坊主で置きっぱなし。本格的に始めたのは高校で新聞部に入ってからやね。

 ユカイ:新聞部!?

 鮎川:新聞部は禁止やったレコードプレーヤーを持ち込んどってね。「プレーヤーあるけん入らんね」ち誘われて入ったら、同級生がギター持ってきて、天井の電球を外してソケットつけて、そこから電源取ってアンプ置いて、「テケテケテケテケ」って弾きだした。「わー、どうやって弾くん?」ち囲んで、順番に触らせてもらって、そこからギターをまた始めた。

 ユカイ:鮎川さんが高校に入った1964年当時、ギター少年に人気だったのはベンチャーズですか?

 鮎川:だいたいベンチャーズをやりおった。俺はベンチャーズも好きやったけど、ストーンズやらキンクスやら、かっこいいのいっぱいおったから夢中になったよ。

 ユカイ:ところでさっき、高校はレコードプレーヤーの持ち込みが禁止だったという話が…。

 鮎川:60年代はまだ厳しかったんよ。今の若い子は「けしからん!」ち言葉聞いたことないやろうけど、あのころは日常語。髪を伸ばしとったら、自転車に乗った赤の他人が目の前で止まって「けしからん! そこの子供! 髪ば切らんか!」ち言ってどっか行ったり(笑い)。昔の九州はそういう温かくて面倒くさいとこがあったんよね。

 ユカイ:ビートルズの来日に反対運動が起きた時代ですもんね。バンドはすぐ組んだわけではなかったんですね。

 鮎川:しばらくは雑誌「平凡パンチ」の付録でコードを覚えて練習しおった。バンドのきっかけはそのビートルズの武道館公演よ。高3の時やね。テレビにかじりついて放送を見とった。

 ユカイ:武道館公演が行われたのは1966年6月30日~7月2日の3日間。テレビでは7月1日の昼の部を収録して夜に放送したそうです。

 鮎川:見よったら、ジョンもポールもジョージもチューニングやってなかなかこっち向かんのよ。そしたら3人同時にバッとこっち向いて、ジョンが「ジャジャジャジャ」とギター弾いて1曲目「ロックンロールミュージック」が始まったんやね。なに今の!? 合図もなく振り向いたと思ったら曲が始まるって!

 ユカイ:出だしから衝撃を受けたんですね。

 鮎川:最高の始まりを見てしもうて、その光景が頭に焼き付いてた時、本屋で立ち読みしよったら小学校の時の友達に「俺、ドラムやっとるから練習見にこんか」と誘われたんやね。あぜ道を農家の納屋まで行ったら、知らんヤツが2~3人おった。自己紹介も何もせんのに「ギター弾ける?」「覚えたてやけど」「じゃ、『デイ・トリッパー』やろう」ちなって。

 ユカイ:後に鮎川さんがYMOのアルバムで弾く曲じゃないですか!

 鮎川:1か月後のエレキ大会に出場するから練習しおるって、ビートルズが武道館でやった曲を中心に練習してね。立ち読みからいきなりゴキゲンなロックの世界に飛び込んで、高3の夏休みはロックに頭が染まってしもうた。受験とかせからしか!って(笑い)。

 ユカイ:ビートルズ来日をきっかけにGSブームが起きたけど、あの武道館公演は高校生にバンドを組ませ、鮎川さんの運命を動かしたんだ。日本のロック史で重要な3日間ですね。

☆あゆかわ・まこと=1948年5月2日生まれ。福岡県出身。九州大学在学中の70年からブルースバンド「サンハウス」で活躍。78年に妻シーナと「シーナ&ロケッツ」結成。米国デビューも果たし、国内外で36枚のアルバムを発表。鮎川はYMOのアルバムにギターで参加したほか、CM、映画にも出演。2015年にシーナ死去後もバンドは継続。娘のLUCYがボーカルを務めることも。今年はバンド結成41年と鮎川誠の71歳を記念した「ROCK OF AGESツアー」を全国で開催。DVD「SHEENA’s YA―ON」が発売中。

☆ダイアモンド・ユカイ=1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。最新ソロアルバム「The Best Respect Respect In Peace…」が発売中。