「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北酒場」で日本レコード大賞に3度輝いた作詞家で、直木賞を受賞した「長崎ぶらぶら節」の作者でもあるなかにし礼さんが23日午前4時24分、心筋梗塞のため都内の病院で死去した。82歳だった。日本を代表するヒットメーカーにして、出発点となったシャンソンやミュージカル、ベートーベン「第九」コンサート開催、情報番組コメンテーター、選挙支援など多彩な活動に生涯を費やした。自身は「作詩家」と称したなかにしさん。言葉に情熱を傾けた人生に幕を閉じた。

 なかにしさんは2012年3月、レギュラー出演していた情報番組で、食道がんであることを公表。疾患があった心臓への負担を避ける治療法を探すため、あらゆる情報を集めて陽子線治療にたどり着き、克服した。15年に再発するも、力強く生還。今年もメディアを通じてメッセージを発してきたが、力尽きた。

 くしくも、1歳年下の作曲家・中村泰士さんに続く訃報となった。中村さんとは、細川たかしがレコード大賞を受賞した「北酒場」(82年)などでコンビを組んだ。細川の「心のこり」(75年)もタッグ作。黛ジュンの代表曲「天使の誘惑」(68年)、菅原洋一「今日でお別れ」(67年)も大賞に選ばれ(後者は70年に受賞)、まさに日本の歌謡界を代表するヒットメーカーの名をほしいままにした。

 旧満州で生まれ、終戦直後の混乱期にソ連軍の襲撃を恐れて逃避行。父を失うなど辛酸をなめ、日本に引き揚げたのは8歳の時だった。北海道、青森、東京と転校を繰り返し、立教大へ。この時代にシャンソンに触れ合い、訳詩を始めた。やがて作詞の世界へと進み、作詞・作曲した「涙と雨にぬれて」(和田弘とマヒナスターズ&田代美代子、66年)が初めてヒット賞を受け、華麗なキャリアの始まりとなった。

 作家としても、満州を舞台に母へオマージュをささげた自伝的作品「赤い月」がヒット。99年下半期の直木賞の「長崎ぶらぶら節」とともに映画化され、後者は吉永小百合、渡哲也の共演で話題を呼んだ。

 私生活ではプレーボーイぶりも伝えられ、仕事とともに順風満帆だった人生で大きな衝撃を受けたのが、11年3月11日に起きた東日本大震災だった。この年1月から12年3月まで、本紙でコラム「愚行はつづくよどこまでも」を連載。震災を受けてこう記したこともあった。

「3・11東日本大震災・大津波以来、私は常にわれとわが身に問いかけている。自分に何ができるのか、また、なにをすべきなのかと。己の無力を感じ、うなだれるのだが、『歌』という言葉が浮かんだ瞬間、私の胸に光明のようなものが、勇気のようなものが、可能性のようなものがふつふつと湧いてきた。そうだ、歌を書こう」

 平成元年(89年)の石川さゆり「風の盆恋歌」以来中断していた歌づくりを決意し、12年には氷川きよし「櫻」が日本作詩大賞を受賞した。震災復興支援では、親を失った子供たちを支援するコンサート「第九“歓喜の歌”」開催に携わり、自ら訳詩も手がけた。

 作詞は、核兵器に反対する歌「リメンバー(Remember)」(佐藤しのぶ)にも及び、他の媒体でも平和メッセージを発信。14年の東京都知事選では脱原発を掲げた細川護熙元首相の応援に立ち上がった。

 昭和、平成、令和を駆け抜けた82年。コロナの年、第九の季節に旅立った。