昭和の歌謡曲のヒットメーカーで直木賞作家としても知られる山口洋子さんが6日午前1時6分、呼吸不全のため都内の病院で死去していたことが15日に分かった。77歳だった。山口さんは、五木ひろし(66)の「よこはま・たそがれ」や石原裕次郎さん(享年52)の「ブランデーグラス」、中条きよし(68)の「うそ」など数多くのヒット曲を作詞した。その後は1985年に「演歌の虫」「老梅」で直木賞を受賞。作家としても超一流だったが、男たちのあこがれの街、夜の銀座で圧倒的存在感を示した“元祖・女帝”でもあった。

 山口さんの葬儀・告別式は、すでに近親者で済ませたという。喪主は妹の安原多恵子さんが務めた。

 東映ニューフェースとして女優デビューした山口さんは、その後、銀座で高級クラブ「姫」を開業。ママとして働きながら作詞を始め、71年に五木が歌った「よこはま・たそがれ」が大ヒットした。これをきっかけに、五木とのコンビで「夜空」「千曲川」などのヒットを次々に発表。“昭和のスーパースター”裕次郎さんの「ブランデーグラス」や、テレビ時代劇の“必殺シリーズ”でも人気だった中条の「うそ」、八代亜紀(64)の「もう一度逢いたい」も作詞した。

 80年代になると小説も書き始め、85年に「演歌の虫」「老梅」で直木賞を受賞。文壇でもスポットライトを浴びる存在となった。得意とした題材は男女の恋愛や仕事に命を懸ける男たちの姿で、「貢ぐ女」「プライベート・ライブ」などの人気小説も書いている。エッセーや野球評論でも知られた。

 作家として大成した山口さんだが、実は“もうひとつの顔”の方が一足早く大成功を収めていた。女優をあきらめると1956年、19歳で銀座にクラブ「姫」を出した。この「姫」こそが銀座を「高級クラブの街」「夜の社交場」として日本中にその名をとどろかせる大きな要因になったのだ。

 銀座を知り尽くす事情通は「当時、銀座には大衆キャバレーが多かった。『姫』も、もともとはキャバレーだったテナントでスタートした。その『姫』は、洋子ママの人脈とマシンガントークで多くの作家や医者や芸能人、野球選手ら各界の著名人が集い、最高級クラブになった」と語る。

 野球選手では現在楽天監督の星野仙一氏(67)や元阪神の田淵幸一氏(67)、江本孟紀氏(67)らとの交流が有名だ。「一度、ある俊足巧打の選手に『ホームランを打ったら10万円あげる』と約束したら、その選手が打ったのがランニングホームラン。さすがに『あんなのホームランじゃない。5万円にしなさいよ』と笑っていた」(同)

 もちろん、「姫」1店だけが銀座を変えたわけではない。

「『姫』は全体的にホステスのレベルがどうのこうのより、たくさんホステスがいて、その中にとびっきりの女がいる店だった。そのうえ、洋子ママは“いい女”を“できるママ”に育てるのが抜群にうまかった」(同)

 つまり、ホステスたちに、ママになる夢を持たせ、いつしか「姫」を巣立っていった者たちが、次々に銀座に高級クラブを出したというわけ。要するに、山口さんは当時の銀座の「女帝」だったのだ。

「このころの銀座は山口さんの教え子だったママがたくさんいたので、その流れから『姫』が銀座高級クラブの頂点になった」と同事情通。

 大衆キャバレーやバーも多かった銀座が高級クラブの街になった。世の男たちは「いつかは銀座のクラブで思い切り飲んでみたい」とあこがれを抱いた。

「ホステスは、1か月でも働いたことがあれば自慢し、お客は一度でも行くことがステータスになった」(同)

 80年代後半のバブルで、銀座は夜の社交場としても絶頂期を迎えた。バブリーで高級なイメージ、世界一の地価などが銀座のブランドとなった。そのころから、世界的ブランドの直営路面店が銀座の表通りに軒を連ねだした。

 しかし、山口さんは80年代後半に病気で倒れ、闘病生活を強いられ借金苦になり、93年に店を手放したという。

 先の事情通は「洋子ママは晩年、ハワイで同地の高級クラブのママに面倒を見てもらっていたようです」と話している。

 昭和の華々しい世界を築いた女性が逝ってしまった。