男がほれ込む男こそが本物の男と言われる。いわば「男の中の男」である。長い日本映画史の中でも「男の中の男」として絶対的な存在だった名優が故・高倉健(享年83)さんだった。
1955年に東映ニューフェイスとして東映に入社。56年の「電光空手打ち」でデビュー後、様々なタイプの作品に出演するもヒット作には恵まれず、下積みの期間は長く続いた。高倉を一気にスターの座に押し上げたのが64年の「日本侠客伝」だった。いわゆる「東映任侠路線」でストイックなやくざ役を演じ、64年からの「日本侠客伝シリーズ」、65年からの「網走番外地」シリーズ、「昭和残侠伝シリーズ」がいずれも爆発的ヒットとなり、一気に国民的スターとなった。
しかし任侠映画のイメージがあまりにパターン化されたことにジレンマを感じていたのか、76年に東映を退社。フリーとなって新たな境地を開拓する。同年には「君よ憤怒の河を渉れ」で主役を演じて77年には「八甲田山」「幸せの黄色いハンカチ」の名作で主演。完全に任侠もののイメージから脱却してストイックな俳優像を確立した。ちょうど「八甲田山」を撮影中の高倉のインタビューが76年11月20日付本紙に掲載されている。当時45歳。革ジャンにジーンズというスタイルはやはり群を抜いてカッコいい。
「九州で生まれて九州で育ったから寒いのは苦手なんス。ヒビ、あかぎれがすぐできて困ります。零下20度以下になると台詞がしゃべれません。自分の場合は北海道に10年以上も行き『網走番外地』で鍛えましたから。九州生まれの弱さをカバーすることは肌で覚えています。ニンニクと肉類をよく採るといい」と、零下20~30度にも及ぶ八甲田山のロケについて淡々と語った。
さらにはブランデーをいつも携帯し、木枯らしが吹けばグイっと飲むという独自の〝防寒対策〟も明かし「若い人なんか台詞がしゃべれなくなる。そんな人にも分けてやるんです。ブランデーが入れば台詞なんてスラスラ出てきますからね」と語った。カッコいいにもほどがある。
極寒に耐え抜く強じんな体力については「高校時代から合気道をやっていましたから。確かに役立ってますね。二段です。(明治大進学後は)親父の勧めで相撲を始めたんですが。1年で辞めました。まわしは一度も締めたことはないです。その後にボクシングを始めましたが、こっちはいいところまで行きましたね」と説明した。
この年は東映映画に一度も出なかった。「20年間、役者生活を続けていますが今年が初めてです。僕が蹴っている? 冗談じゃない。ホサれているんですよ」と豪快に笑った。実は東宝「八甲田山」は雪のある季節しか撮影できないため、東映の映画とスケジュールがかぶってしまった結果だという。それほど「八甲田山」にかける熱意は並々ならないものがあった。
その情熱が報われ、77年6月に公開された「八甲田山」は、配給収入25億900万円の大ヒットを記録。日本映画年間第1位を記録した。また「幸福の黄色いハンカチ」にも主演し、記念すべき第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。男・健さんにとって最良の年だったかもしれない。
その後も80年「動乱」、「遙かなる山の呼び声」、81年「駅 STATION」、99年「鉄道員(ぽっぽや」などの名作に主演し、いずれも日本アカデミー賞最優秀男優賞を獲得し、その地位は揺るがないものになった。83年「南極物語」、「居酒屋兆治」、ハリウッドに進出した89年「ブラック・レイン」などの傑作も忘れがたい。
以降は年に1本のペースで主演を張り続けたが、「風に吹かれて」の撮影準備をしていた2014年11月10日、悪性リンパ腫のため83歳で亡くなった。結果的には12年の「あなたへ」が最後の作品となった。没後は各界から逝去を惜しむ声が相次ぎ「映画界の巨星逝く」のニュースに日本中が悲しみに暮れた。
今でも作品を問わずに「雪の中にたたずむ健さん」を想像しただけで胸が詰まるというファンは多いだろう。この年末年始は改めて「名優・高倉健」の作品に触れてみるのもいいかもしれない。(敬称略)













