突撃精神と庶民感覚が武器の“がらっぱち”リポーターだった。元芸能リポーターで、東京・目黒区議会議員の須藤甚一郎さんが11日に多臓器不全のため死去していたことが13日、分かった。81歳だった。ワイドショーがイケイケ突撃路線だったころ、様々な現場で歯に衣着せぬ鋭い質問を浴びせた名物的存在。本紙では連載「トリオ・ザ・地獄耳」で芸能スクープを連発した。6期目を迎えていた区議としても活躍した名物リポーターのマル秘伝説エピソードとは――。

 須藤さんは昨年夏に熱中症で倒れ、入退院を繰り返し、2か月前に誤嚥性肺炎を発症。消化器や呼吸器などの状態が悪化し、11日に横浜市内の病院で亡くなった。

 須藤さんは古書店で働きながら都立小石川高(定時制)を卒業し、アラブ連合共和国大使館(現エジプト大使館)職員を経て、早大第二政経学部を卒業。下着メーカー「トリンプ」社員、女性週刊誌「女性自身」「微笑」記者を経て、1978年、芸能リポーターに転身し「アフタヌーンショー」(テレビ朝日系)、「おはよう!ナイスデイ」(フジテレビ系)、「ルックルックこんにちは」(日本テレビ系)に出演した。

 芸能、事件、政治とジャンルを問わず、現場に駆けつけ、取材対象者には辛口で鋭い質問を浴びせ続けた。80年代のワイドショーはイケイケの時代で、梨元勝さん(2010年死去、享年65)らとともに、得意の突撃リポートを繰り返し、注目を集めた。

 リポーターとして、ライバルであり“戦友”でもあった石川敏男氏(73)は、須藤さんの並外れた質問力とアイデアマンぶりをこう振り返る。

「プロ野球選手の田淵幸一さんとジャネット八田さんの交際、妊娠発覚の時に、『妊娠はしてません!』と否定した八田さんに向かって、須藤さんが『では、お小水ください』と言うので、びっくり。何でもアリだった当時のワイドショーでも衝撃だった」

 大人気スター選手の当時の恋人(後に結婚)に向かって「お小水ください」とは、まさに伝説のエピソードだ。

 80年代に大きなニュースとなったロス疑惑の三浦和義さん(08年死去、享年61)を追いかけていた時には、自宅2階にいる三浦さんに向けて、張り込み取材中の須藤さんが取ったある行動も衝撃だったという。


「竹の棒の先に質問を書いたメモをつけて、三浦さんのいる2階の窓越しにそれを見せて、答えさせていた」(石川氏)

 記者会見場や事件現場では、周囲の記者が腰が引けても、須藤さんが容赦ない鋭い質問をすると、場が引き締まった。

「多少失礼な質問でも、聞かれる方は須藤さんだから仕方ないという雰囲気だった。当事者が困惑の表情を見せ、それが映像になると真相が言わずもがな、あぶり出されることもあった」(ワイドショー関係者)

 本紙では、梨元さん、井上公造リポーターとともに座談会「トリオ・ザ・地獄耳」を長年連載。須藤さんはずばぬけた記憶力で“歩く芸能史図鑑”のような存在だった。

 99年、目黒区議選で初当選。長年にわたるリポーター、ジャーナリスト歴を経て区議に転身した。

 当時、須藤さんは「年収は半分になったけど、リポーターとしては僕より長い梨元さんたちがいる中で、がらっぱちをやりたいようにやってきた。区議会でも他の議員と同じことをやっても面白くない。硬軟バラエティーに富んだ東スポのような議員を目指したい」と話していた。

 語り口調はのんびりユーモラスながら取材には一切手を抜かず、常に視聴者&読者目線を忘れない庶民感覚が印象的だった。区議転身後も反権力の姿勢を崩さず、目黒区民から頼られた。

 著書には「芸能界・今日モ醜聞(スキャンダル)アリ!」(日経通信社)などがあるが、09年に出版した「まっ黒長屋の物語」(三一書房)で描いた少年時代の実話が庶民派の原点だった。

「昭和20年代の板橋の長屋で、衣類を質入れして家族が食べ、熱が出てもミミズを煎じたのを飲んで治していた」(須藤さん)

 通夜は18日午後5~8時に随時参列の形で、東京・世田谷区「公益社用賀会館」(喪主は長男・健太郎氏)で行われる。葬儀・告別式は親族のみで営まれる。