松田聖子を発掘した伝説のプロデューサー・若松宗雄氏が、「松田聖子の誕生」(新潮新書)を出版した。カセットテープから流れる16歳の少女の歌声に衝撃を受け「絶対に売れる」と確信。デビューから1980年代後半までのシングルとアルバムをすべてプロデュースし、聖子をトップアイドルに育て上げた。今なお輝き続ける聖子のデビュー当時の素顔や、著書には書き切れなかった秘話を明かした。
聖子との出会いは1本のカセットテープだった。1978年に開催された「ミスセブンティーン・コンテスト」の地区大会の応募者の歌唱テープを聴いていた若松氏は16歳の少女が歌う桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」に心を奪われた。
応募者およそ200人分のテープの中でもその歌声は別格だった。「感動する時は自分の中にイメージがある。そのイメージが鮮明にパッと開いた。すがすがしい。歌に品と強さもあった。とにかくほかの人とは全然違った」と振り返る。
その歌声にほれ込み、若松氏は東京から聖子の住む福岡に向かった。紺色のワンピース姿で現れた聖子に「とにかく品がよくて、余分な物が何もない。すごいピュアで原石としてすごい。今でも100%鮮明に覚えてますよ」。
その原石をどのようにして輝かせていったのか。聖子の素質に加え「素直な性格で私を信頼してクリエーションを全て託してくれた。これも彼女の才能。とにかく頑張り屋。何が何でも1番になりたいという意欲はすごかった」。
聖子をスターにしたもう一つの才能が“運を味方につける能力”だ。デビュー曲をヒットメーカーの筒美京平氏に依頼したが多忙のため断られてしまう。そこで若松氏が当時ヒットしていた「サーカス」の「アメリカン・フィーリング」を手掛けた小田裕一郎氏に依頼し完成したのが「裸足の季節」。デビュー曲はオリコン最高12位、売り上げ30万枚を記録した。続く2枚目のシングル「青い珊瑚礁」が大ヒットしトップアイドルの仲間入りを果たした。
若松氏は「京平さんにやってもらったら最初は売れたかもしれないけど、ここまではなってないと思う」と断言した。
トップアイドルとなり取り巻く環境が変わるなか「聖子」と呼び、叱ることできた唯一の存在が若松氏だった。「当時はすごかったですね。『聖子、何やってんだ! 今日の歌は冗談じゃない』といつも怒鳴ってたから」。レコーディングでも「今日は気持ちが浮ついてるなとか。大体、スタジオに入って来た時に分かるわけですよ」と振り返った。
あえてレコーディング当日に曲を渡していた。「1週間ぐらい前に渡しても脇に置いちゃう、性格的に(笑い)。でも逆に準備万端にやろうとする子は売れない。聖子はそういうタイプではないけど、ただ覚え方は天才的。これは鍛えてどうこうなるものじゃない」と絶賛した。
唯一無二のアイドル松田聖子を誕生させたものは何だったのか。若松氏は「聖子の運と縁」と語る。続けて「聖子の突き抜けるような声が好き。デビューしてからどんどん歌い方が変わってくるけど一番好きなのはオーディションのテープかもしれない」。天性の歌声が引き寄せた若松氏との縁が、聖子にとって最大の幸運だったようだ。












