サッカーの元日本代表DF中沢佑二(40=横浜M)が先日、現役引退を発表した。V川崎でプロデビューした1999年当時から担当していた記者にとっては何とも感慨深いものがある。

 特に担当チームだったV川崎は99年シーズンに向けて大株主だった読売新聞とよみうりランドが経営から撤退したのをはじめ、これまでチームを支えてきたエースFW三浦知良が海外移籍し、MFラモス瑠偉やDF柱谷哲二といった重鎮が現役引退と、主力選手も大幅に入れ替わり、日本テレビが親会社となって再スタートしたからだ。

 指揮官にはOBの李国秀総監督を迎えて始動する中、スター選手不在のチームで存在感を放ったのはプロ1年目の中沢だった。キレのある動き、打点の高いヘディング、対人プレーの強さなど、練習でも主力メンバーを圧倒するパフォーマンスを見せていた。すぐに好機を生かしてデビューを果たすと、チームも快進撃し、第1ステージで2位と躍進した。

 99年当時、李総監督は、本紙記者に「しっかり試合を見ているか? ようやく世界でも戦える日本を代表するセンターバックが誕生したな。間違いないよ。あいつは。これからも、中沢をしっかりと追いかけて見ていけよ。それがお前のためにもなるはずだからな」と話してくれた。

 まだ、中沢は五輪代表もA代表にも招集されておらず、サッカー界でも実力について「今だけだよ。1シーズンは持たない」「慣れてくれば、良いストライカーには突破されるよ」「経験がなさ過ぎる」など、疑問視する関係者も多かった。

 それでも間近で中沢のプレーを見てきた指導者には確信があったのだと思う。V川崎でセンターバックのコンビを組んだDF米山篤志(J1川崎コーチ)についても「あいつも代表だな」としていたが、チームの快進撃とともに、中沢の成長が本当にうれしかったのだろう。しばらくして中沢は本当に日の丸を背負うようになった。

 スター選手が不在で苦しんでいたV川崎の救世主として注目されると、一気にスター街道を突き進んだ。その後もシドニー五輪出場を果たすと、日本代表の常連選手となり、2006年ドイツW杯と10年南アフリカW杯に出場。その間にはキャプテンも務めた。もちろん、記者もたくさんの原稿を書かせていただいた。

 ちなみに中沢の代名詞「ボンバーヘッド」も厳しい競争を勝ち抜くための戦略。本来は端正な顔つきのイケメンだが、髪を伸ばし、ヒゲをたくわえるなど、あえてワイルドな風貌を装ったのは敵を威圧するため。この世界で成り上がるために見た目にもこだわった。また、最初に背負った背番号22を愛しロッカー番号や部屋番号など、さまざまな場面で「2」や「22」を好んだ。

 日本を代表する名選手となってからも、記者を見つけると「何の取材ですか? 僕は何も怪しいことしていませんけどね…」と新人時代と変わらない笑顔で話しかけてくれた。どんな質問にも誠意をもってマジメに答えてくれた。それだけに引退は少し寂しい。

(運動部デスク・三浦憲太郎)