【デスク発ウラ話】“日本女子レスリングの母”大島和子さんの功労

2020年05月18日 12時00分

 先月、久しぶりに日本女子レスリング選手第1号の大島和子さんにお会いした。お持ちの資料を借りるためだった。新型コロナウイルス感染拡大の状況下とあり、わずか1~2分の再会。ショートカットに、70歳を超えてもしゃきんと伸びた背中は以前と全く変わらない。

「なんでも自由に使ってください。私に気を使わなくていいからね」。サバサバしていて行動が早く、思いやりのある方。資料には記事ごとに付箋がしてあり、写真もまとめられていた。

 大島さんが日本女子で初めて試合に出場したのは1985年2月。フランスの国際大会で当時、36歳の高校教員だった。高1から講道館で柔道を始め、三段の実力の持ち主。日本レスリング協会に知り合いがおり競技に興味を持つうち、あれよあれよと選手第1号に仕立てられた。「初めから仕組まれていたのよ」と笑う。

 大島さんは柔道界でもパイオニアだった。80年、女子初の世界選手権ニューヨーク大会には日本チームに同行している。講道館では長く女子の公式戦は行われず、大島さんは練習試合の経験しかない。第1回全日本女子柔道選手権が開催されたのは78年。すでにベテランの域に達していた大島さんもエントリーまでしたが、師匠の乗富政子さんに「やめなさい。あなたは指導の道を進みなさい」と諭され断念した。

 7年後にレスリングで女子初の国際連盟(FILA・当時)公認大会に出る機会が巡ってくるとは不思議な縁だ。大島さんの、女子格闘家、武道家としてのさだめだったのだろう。

 日本女子レスリングの歴史的初戦は、2試合とも完敗だった。練習期間はわずか1か月。キャリア10年の欧州勢に、日本女子の普及発展のため、負けを承知で挑んだ大島さんの勇気がなければ、日本の女子開始はもっと遅れていたと当時の関係者は口を揃える。

 功績は選手第1号だけにとどまらない。指導者転身後も、教員を続けながらすべて自費で海外遠征に参加し選手たちを支えた。鍋やコンロ、食料を持参。「大島部屋」で日本食を作り提供、精神面もサポートした。「偉くならなくても、有名にならなくてもいい。人間として立派な人になってもらいたい」と常に人づくりを念頭に置いた。「大島先生」と呼ばれ、温かさ、厳しさ、誠実さで多くの選手に慕われた。

 2004アテネ五輪で女子は悲願の正式種目入り。黄金期を迎えると、女子強化を取り巻く環境は一変した。あらゆるサポートが導入されるようになり、08年北京五輪後のいつの頃からか「大島先生」の姿はレスリング界で見えなくなった。

 その後も教育現場で活躍し、今も副校長まで務めた千葉・木更津の暁星国際学園で女子寮寮長として小学生、留学生など多様な子供たちをサポートしている。

 大島さんは「今があるのはレスリングのおかげ。いろいろな経験を積み教員として大きくなれたのよ」と話す。何の見返りも期待せず、選手や競技発展のために尽くした“日本女子レスリングの母”の功労はいつまでも忘れてはならないと思う。「大島先生」の教えを心に刻んだ後継者たちの活躍に注目していきたい。

(運動部主任・中村亜希子)