大相撲の第55代横綱北の湖として優勝24回を誇った日本相撲協会の北の湖理事長(本名・小畑敏満=おばた・としみつ)が20日午後6時55分、直腸がんによる多臓器不全のため福岡市内の病院で死去した。62歳だった。現役時代は「憎らしいほど強い」と言われたほど圧倒的な力を見せ、引退後は協会トップとして相撲人気回復に尽力したが、近年は病魔との闘い。今場所も不退転の覚悟で闘病生活を送り、最後まで土俵から離れることを拒み続けた。昭和の大横綱の「壮絶な最期」を追悼公開――。

 協会トップの突然の訃報に、角界は悲しみに包まれた。北の湖理事長は19日夜に持病の貧血の症状を訴え、20日朝に救急車で福岡市内の病院に運ばれて入院した。血圧も低下し、点滴治療などで容体は安定したというが、夕方になって急変。13日目の打ち出しから約1時間後に息を引き取った。一報を受けた協会幹部は対応に追われ、病院には次々と親方衆が駆けつけた。

 現役時代、北の湖を優勝決定戦で破って初優勝を飾った九重親方(60=元横綱千代の富士)は「(相撲は)離れても組んでも良しで、万能な人だった。全く歯が立たなかったが、一つの目標として頑張って同じ地位になれた。(急死は)心労もあったと思う。一緒に仕事をした時期もあったが、率先してやってくれる人だった」と偉大な先輩横綱をしのんだ。

 2002年に理事長に就任。力士暴行死事件や弟子の大麻問題などで08年9月に辞任したものの、12年1月に返り咲いてからは相撲人気の回復と発展に尽力してきた。

 今場所も初日から亡くなる前日の12日目(19日)まで、幕内後半の取組中に理事室で報道陣に取材対応。顔色こそ優れなかったものの、はっきりとした口調で取組ごとの感想などを述べていた。横綱白鵬(30=宮城野)が10日目に奇襲の「猫だまし」を見せると、いつになく強い口調で「横綱としてやるべきことじゃない!」と毅然とした態度を見せていたほどだ。

 しかし、その裏側で体は病魔にむしばまれ、とても本場所に顔を出せるような状況ではなかった。実際、角界内では九州場所が始まる以前から、北の湖理事長の深刻な体調不安がささやかれていた。毎年、場所前に福岡で開かれる恒例の「横綱会」が中止となる異例の事態。維持員との交流会や福岡・住吉神社の横綱奉納土俵入り、力士らの安全を祈願する土俵祭りなど協会の公式行事はすべて欠席した。

 場所初日から公務に復帰したものの、協会あいさつなどの職務は事業部長の八角親方(52=元横綱北勝海)が代行。北の湖理事長は、病気からくる腰の激痛とも闘っていた。福岡国際センターの駐車場から理事室に入るまでの、約10メートルの距離さえ歩くことがままならないほど。付け人らに支えられながら2歩、3歩、歩いては立ち止まり、また数歩足を運んだところで手すりにもたれかかる…。そんな痛々しい姿も目撃された。実は、余命いくばくもないことは北の湖理事長自身が一番分かっていた。周囲からは九州場所そのものを休場し、病院で療養することを勧められていたという。しかし、北の湖理事長は「病院でジッとしているだけなら、ただ死ぬのを待つだけだ!!」と拒否。日本相撲協会のトップとして、あくまで本場所の土俵を見届けることを自らの意思で選んだ。

 まるで、己の命を削るようにして職務を全うしようとしたが、その強い願いも及ばなかった。千秋楽まであと2日というところで力尽きた。まさに「壮絶な最期」と言うほかない。