【東スポ60周年企画 フラッシュバック(15)】卓球は今でこそ、五輪や世界選手権で日本代表選手たちの白熱したプレーをテレビ中継で観戦できるようになった。きっかけをつくったのは、元祖天才少女・福原愛の五輪デビューだったことに間違いはない。13歳の福原を国際舞台に抜てきし、一流選手に育て上げた名将・西村卓二氏(71)に聞く本紙連載「フラッシュバック」の後編は、アテネ五輪が行われた2004年にフォーカス。五輪本番の「福原が日本卓球界を変えた日」と、その4か月前にあった“強行采配”の裏側に迫った。


 2004年3月、カタール・ドーハで行われた世界選手権団体戦。福原は前年の世界選手権個人戦(5月)の91位から30位に世界ランキングがアップしていた。予選リーグ1位突破がかかる香港戦で、当時世界6位の帖雅娜を撃破。決勝トーナメント初戦の中国戦でも随所に好プレーを見せるなど、成長を続けた。そして04年4月。アテネ五輪アジア大陸予選の選手選考で、西村氏は大きな賭けに出た。すでに3枠あるシングルス代表で日本は梅村礼、藤沼亜衣が代表に決定済み。残り1枠はアジア大陸予選(北京)で獲得しなければならない。その大会の日本の出場枠は1。西村氏は、国内予選会を実施せず、福原を抜てきした。

 西村氏(以下西村)今考えると、思い切ったことをしましたね。ドーハの戦いぶりを見て、福原はアジア予選で勝てるという感覚を持っていた。理事会で福原の急成長を説明。伸び悩む他の選手との比較もして、賛成多数をもらった。でも「西村の独断だ!」とクレームが来ました。わかった。結果を出そう。負けたら腹を切ろう、と。北京には辞表を持って行きました。福原は知らないでしょうね。

 西村氏の決死の覚悟に応えるように、福原は難敵を次々と撃破、出場を決めた。

 西村 やりにくい北朝鮮もいたし、枠を取れなくてもおかしくはなかった。怖いもの知らずの福原だから良かったと思います。

 このころには、代表選手らしさも身についてきた。柔道五輪2大会金メダルの谷亮子を育てた吉村和郎氏を招いて講義を聞かせたり、戦闘意識を高めるため、古代ギリシャの歴史戦争映画「トロイ」を見せたりもした。

 西村 吉村さんに「柔道はベスト8で満足できない、金メダル取らないと帰ってこれないんだよ! 愛ちゃん!」って言ってもらったら「うん」って。昔は反省文が1行だったのに、そのころの読書感想文なんかはビッチリ書くようになっていた。目標を言わせても、言葉が多くなってましたね。

 そして迎えた8月のアテネ五輪。それまで卓球は、メダルマッチ以外がテレビで中継されることはほぼなかった。しかし福原が歴史を変えた。NHKが生中継。民放でも同時に中継された。初戦の2回戦(15日)はミャオ・ミャオ(オーストラリア)との対戦。“泣き虫愛ちゃん”とは打って変わった“戦う福原”に、多くの人がくぎ付けになった。

 西村 福原がポイントを決めるたびに叫ぶ「サー!」がものすごい話題になった。1本取ったら「サー!」。みなさん、奇妙に見えたんですね。クイズ番組で「福原選手は試合の時に何と言っているでしょう」ってやったくらいですから。

 テレビ中継の影響力の大きさも感じた。ミャオ相手に大苦戦し、ベンチに戻った福原が、観客席の家族と湯媛媛コーチをちらちらと見る姿に「監督の話を聞いていないんじゃないか」という意見も寄せられた。

 西村 卓球はメンタルの競技。家族やお姉さん的存在の湯さんの表情を見て、安心したかったのだと思う。私は面白くありませんよ。でも私たちの仕事は選手の力を引き出すこと。「話を聞け!」って怒鳴ったら、福原の天才プログラムは狂う。腹いせで監督の権力を示せば、選手からは「あんたのためにやっているんじゃないよ」って不信感が出る。こっちが我慢しないといけない時もある。五輪という大舞台でどう力を引き出すか考えました。

 苦しみながらも4―3でミャオに勝ち、迎えた17日の3回戦、ガオ・ジュン(米国)戦。西村氏はある作戦に出た。

 西村 家族席を私の真後ろに持ってきて、向こうを見ても分からないようにしました。ちゃんと私の話も聞きましたけどね。でも面白いんですよ。あの時、私は怒っていたからか、ベンチで福原のドリンクを振っていたんです。戻ってきて開けたら、泡がすっ飛んだ。そしたら福原が「私のペットボトル、振らないでください」って。「ごめんごめん」。緊迫した五輪の試合中なのに余裕あるんですよ。福原は天才なんです。冷静さと繊細さが共存している。そういう意味で「あいつの思うようにやらせよう」という作戦は当たりました。

 見事に4―0でガオに勝ちベスト16入り。勝利した場面の瞬間最高視聴率は31・9%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)を記録した。8強を懸けた18日の4回戦はカットマンの金暻娥(韓国)に敗れたが、福原はアテネ五輪の主役の一人と言っていいほどだった。

 五輪後、日本協会理事会は満場一致で西村氏に監督続投を要請した。しかし、必要だと希望した協力体制が得られそうもないことや、東京富士大にも西村氏を待つ学生たちがいたこともあり、西村氏は要請を受けなかった。とはいえ、代表から離れても福原の試合はよく見た。16年リオデジャネイロ五輪での福原を見て、プレー以外での成長を強く感じた。

 西村 私が監督だったころは、福原はいつでも一番下。先輩たちに「あれして」「これして」と言われることが多かった。いずれは福原の時代が来る。「福原、嫌だろ。お前が先輩になった時にそういうことしちゃいけないよ」って言ったら、「うん」って言っていた。リオ五輪の時に石川佳純、伊藤美誠、平野美宇ら後輩たちに、嫌な思いをさせずにいい形でやっていた。「愛ちゃんがキャプテンで良かった」って他の選手が言っていた。ずいぶん大人になったな、と。あと、結婚式に呼んでもらったんですが、イケメンと結婚してね。13歳のころも「絶対イケメンがいいんです」って言ってて、そこは変わっていなかったですね(笑い)。

 アテネ五輪後、空前の卓球ブームが到来。世界選手権もテレビ中継されるようになった。第2、第3の福原も次々に登場。日本卓球界の選手層は格段に厚くなった。

 西村 福原はパイオニア。小さなころからお母さんと1000本ラリーをやった姿を見た他のお母さんたちが、自分でもできると思ったと思う。若年層の指導者も同じ。今、子供たちの大会を見ると親御さんや指導者の情熱が昔と違う。福原の存在は、子供も親も指導者も動かしたと思います。

 他の追随を許さない大きさとなった「福原愛」という存在。卓球界だけでなく、日本のスポーツ史に残るアスリートとして、輝きが色あせることはない。

☆ふくはら・あい 1988年11月1日生まれ。宮城県出身。幼少のころから各世代大会の最年少記録を塗り替え、天才少女として注目を集める。2003年世界選手権パリ大会シングルスベスト8。04年アテネ五輪同ベスト16。12年ロンドン五輪団体銀メダル。16年リオデジャネイロ五輪団体銅メダル、シングルスベスト4。同年、台湾の江宏傑と結婚。18年に現役引退を表明した。

☆にしむら・たくじ 1948年8月14日生まれ。兵庫県出身。中央大卒。73年から富士短大(現東京富士大)卓球部監督として指導を始め、アジア女王、全日本女王や日本代表を数多く輩出。2001年日本女子代表監督就任。02年釜山アジア大会団体銅メダル、04年世界選手権ドーハ大会団体銅メダル。04年アテネ五輪では全選手がベスト16入りした。東京富士大名誉教授。