92年8月7日バルセロナ五輪シンクロデュエット代表落選の裏 小谷実可子氏が激白 

2020年08月22日 10時00分

報道陣に囲まれた小谷は気丈に振舞ったが…

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≪悪夢の2週間≫「私、そのころの記憶がほとんどないんです。人間ってホントによくできていますね」

 取材冒頭、小谷氏はそう言って当時の本紙記事を眺め、必死に記憶をたどった。自ら「人生のドン底」と表現するバルセロナ五輪。まさしく「忘却本能」が働くほど苦しく、プライドを引き裂かれた悪夢の2週間だった。出番なく最後の夏が終わった翌日の本紙には「実可子、無情フィナーレ」「小谷の時代は終わった」という痛烈な見出しが躍った。スタンドで涙を流す自身の写真を見ると「あー、これ覚えてます! カメラマンは私の涙を狙っているって分かったから、絶対に泣かないって思ったのに」と懐かしそうに話し、徐々に元女王の脳裏に消えていた数々の記憶がよみがえってきた。

 そもそも小谷氏にとってバルセロナ五輪とは何だったのか? 話はその4年前にさかのぼる。シンクロ界の女王に君臨していた小谷氏は88年ソウル五輪のソロ、デュエットで銅メダルを獲得。当時、日本でそれほど一般的でなかったシンクロを大きく普及させ、その美貌も手伝って誰もが認める国民的ヒロインであった。ソウル五輪後は「メダルという夢を達成したし、自分が辞めれば若手がチャンピオンになれる」と身を引くことも考えた。だが同時に「欲も出てきた。一度シンクロから離れて勉強し、人間的に成長すれば演技にも幅が出る」と引退に踏み切れず、最終的に「休養」という形を取った。いつか来る「復帰」を見据え、テレビ番組のレギュラーやCMの仕事はすべて断っていたという。

 そのころ、日本代表では若手が台頭し、既に「脱・実可子」の流れが出来上がっていた。その筆頭格が、小谷氏に憧れていた奥野史子氏だった。「もう実可子はいない。あなたが日本を引っ張らないといけない」。金子正子コーチの言葉で奥野氏もその気になっていた。そんな中、バルセロナ五輪1年前の6月に小谷氏は復帰を決断。代表に合流した瞬間、周囲の“不協和音”に気づいたという。

「食事の時、なんか会話が少ないって感じたんです。もともと、ふーちゃん(奥野氏)は人懐っこくて、かわいい後輩でしたが、私の復帰に対して何かマイナスな気持ちがあるんじゃないかって思いました」

 水面でも異変が起きた。復帰を告げた金子コーチに「甘くないわよ」と先制パンチを食らった際は「私はずっとダントツで敵なしだった。たかだか半年間のブランクだし、水中の練習では得られない社会経験や五輪への思いを持って帰ってきたんだから大丈夫」とタカをくくっていたが、実際に練習すると水中での倒立が一向にうまくいかない。「日に日に金子先生の表情が暗くなり、ため息が多くなり、これじゃ私、ダメかもしれないって思いました」と徐々に自信を喪失していった。

 代表合宿は肉体的にも地獄だった。「毎日が生きるか、死ぬか」。猛練習で食欲も失い、合宿所で出されたお造り定食の刺し身ひと切れすら「重たくてのどを通らなかった」。日数分の線香花火を買い、毎晩のように洗面器の上で火を見つめ「あと何日」とカウントダウンした。迎えた4月のバルセロナ五輪選考会では奥野氏が1位、小谷氏は2位。女王交代が浮き彫りになった。ソロは奥野氏が出場するため、小谷氏はデュエットでの枠をもぎ取るしかなかった。

 気持ちを上げようにも人間関係は最悪だった。「私が自滅していく中で、みんながお互いに疑心暗鬼になっていた。四半世紀以上がたち、あの時なぜ最年長としていい雰囲気をつくれなかったのか。最近のアスリートのように、どうして後輩に抜かれても明るく振る舞えなかったのか。分かりやすい言葉で言うと、あそこから人生をやり直したい気持ちです」

≪闇の90分間の真実≫

 後日、2人はテレビ番組の企画で再会を果たし、涙ながらに当時を振り返ったが、小谷氏にはまだ話していないことがあった。それがデュエット落選後の“闇の90分間”だ。バルセロナ五輪の競技3日前、日本水連幹部は「実績とネームバリューがある小谷の方が高得点を見込める」と判断して一度は小谷氏と3位・高山亜樹氏のペア出場を決めたが、なんと8月7日の試合本番90分前に3選手3パターンのペアを試す超異例の“選考会”が敢行され、小谷氏は落選したのだった。

 発表を受けて号泣した小谷氏は、頬に涙が伝う中で「最後に声をかけよう」と思い立ち、支度へ向かう奥野氏の背後から「頑張ってね」と発した。
「私の記憶の中では無視されているんですよ。何も言わずに行ってしまった背中を覚えています。ただ、恐らく無視じゃなく、声が届かなかっただけでしょうけど」

 もう小谷実可子は必要ない――。そんな絶望がゆがんだ記憶を生んだのかもしれない。小谷氏は続ける。

「これは初めて言いますが、あの後、私はトイレに入って体育座りでずっと泣いてました。そしたら誰かが一人、入ってきて、私に気づいて出ていったんです。なんか、その優しさ、気遣いに触れて、一気に自分の心がほどけていきました」

 吹っ切れた小谷氏は金子コーチ、井村雅代ヘッドコーチと一緒に奥野氏、高山氏の髪飾りを手伝った。張り詰めていた空気は解け、冗談を言い合い、一瞬だけ昔の関係に戻ったという。だが、外ではマスコミは落選後の小谷氏を狙っている。人目につかない場所での観戦を勧められたが「別に私は犯罪者じゃない。スタンドで見ます」と言い、冒頭のシーンにつながったのだ。

 バルセロナの2週間を「人生やり直したい」と表現した小谷氏だが、詳細を思い出すと「やり直すのはトイレで泣く前まで」と修正し、最後にこう語った。

「ソウルは人生のピーク、バルセロナは最低。でも、バルセロナがスポーツの厳しさ、潔さを教えてくれ、私はブレずに生きてこられた。もし温情で出場していたら、何も学べなかったと思う。あんなつらい経験でもプラスになれるんです」

 小谷氏と奥野氏は現在、共に日本水泳連盟AS委員会のアスリートグループに所属し、それぞれ関東、関西を統括している。真夏の悪夢から30年目の来年8月、2人は同じ夢を追いかけることになる。

≪奥野&高山ペア銅獲得の翌日にバッサリ髪を切った≫

出場を逃した小谷氏は思わぬ行動に出た。奥野、高山ペアが銅メダルを獲得した翌日、突然ショートカットになって公の場に現れたのだ。
「日本のシンクロ界に小谷実可子は不要になったと自覚し、イコールもう自分のシンクロ人生は終わりってことで髪を切りました」
 ある意味、引退の決意表明。当時は「他に特別な意味があるのでは?」との臆測が飛んだが、小谷氏は「それ以外に深い意味はないです。メダルを取った2人はテレビ番組を回るので、私は選手村で一人。ヒマだったし、気分転換という感じで」と真相を語った。

 ☆こたに・みかこ 1966年8月30日生まれ。東京都出身。小学生の時に入った水泳教室のコーチの夫がシンクロ関係者だった縁で競技生活をスタート。85年から全日本選手権4連覇。88年ソウル五輪のソロ、デュエットで銅メダルを獲得。92年バルセロナ五輪後に引退した。その後は五輪招致活動に携わる一方、陸上世界選手権のフィールドリポーターなどスポーツコメンテーターとしても幅広く活躍。現在は国際オリンピック委員会理事、世界オリンピアンズ協会理事、東京五輪選手村副村長を務める。99年に結婚。現姓・杉浦。家族は夫と2女。