1992年「バルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎ決勝」岩崎恭子 1日16Kmスイムでつかみとった14歳の金

2020年06月10日 11時00分

世界記録保持者ノール(左)に祝福される岩崎

【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(7)】「今まで生きてきた中で一番幸せです」。当時、中学2年生だった競泳の岩崎恭子さん(41)が1992年バルセロナ五輪で、あの名言を口にしてから28年が過ぎようとしている。日本五輪史に深く刻まれる女子200メートル平泳ぎ決勝でのあっと驚く金メダル奪取劇。創刊60周年を迎えた本紙連載「フラッシュバック」では、シンデレラストーリーの裏側にあった2大転機に迫った。世界の頂点に駆け上がったヒロインの運命を変えたのは何だったのか――。

 14歳の誕生日を迎えたばかりの少女が世界にその名を刻んだのは、1992年7月27日、競泳女子200メートル平泳ぎ決勝。最初の50メートルで6位と出遅れたが、150メートルで2位に浮上した。ラスト25メートルで当時の世界記録保持者のアニタ・ノール(米国)をとらえると、林莉(中国)の追い上げも封じて2分26秒65の五輪新記録で優勝。この大会、日本選手団に初の金メダルをもたらした。

 岩崎 とにかく必死に前を行くっていうような感じでした。ただただ、驚きました。達成感なんて全くないですよ。え、私が金メダル?みたいな感じだったと思います。でも、自分のために(君が代が)流れていることは今までなかったので、日本人としてメダルが取れてよかったと思いました。

 競泳史上最年少Vの快挙は「奇跡の金メダル」として、現在まで多くの人たちの間で語り継がれている。しかし、このドラマチックなストーリーは奇跡ではなく必然だった。世界一を決める大一番で数々のピースが重なり合った裏には、2つの大きなターニングポイントがあった。

 まずは91年の米国遠征だ。同年6月の全日本選手権女子200メートル平泳ぎで4位に入ったことで、国内と米国で行われる合宿のメンバーに選出された。ところが、初めての経験だったことから、まだ13歳だった少女の心は大きな不安に包まれていた。

 岩崎 合宿で忘れもしないのが、国内合宿の会場が実家(静岡・沼津)から近かったので、車で送ってもらったんです。でも、合宿所みたいなところに着いたときに、もう泣いてました(笑い)。練習の量と質も全く違っていて、私は(通っていた)スイミングスクールだと1回3000~4000メートルしか泳がなかったんですけど、6000~8000メートルが普通だったんですよ。しかも、それを2回(午前と午後)。初めは遅かったので、(他の選手に)ついていけなかったんですよね。

 最初は一人だけ練習量を減らしてもらうこともあった。それでも、必死に先輩方の背中を追いかけ、自己ベストを約5秒縮めた。合宿後の全国中学校水泳競技大会の女子200メートル平泳ぎでは、2分31秒08の大会新記録(当時)で優勝し、1年後に迫ったバルセロナ五輪が視界に入ってきた。

 岩崎 今までは午前と午後、どっちも動くことはなかったし、腹筋や背筋などの陸上トレーニングも合宿で初めてやりました。もうやるしかないっていう思いでやっていたら、選手それぞれ成長する時期って違うとは思うんですけど、私の場合はその時期に体の成長がうまくはまっていたと思います。

 田舎育ちの少女がトップ選手たちにもまれ、本気で水泳と向き合った。その結果、翌年4月のバルセロナ五輪の選考会を兼ねた全日本選手権では、女子100&200メートル平泳ぎで2位に食い込み、バルセロナ行きの切符を手にした。ただ、世間の期待は同選手権で2冠を達成した粕谷恭子に集中。13歳の新鋭が特に注目を浴びることはなく、私生活に大きな変化はなかった。

 岩崎 昔は今みたいに選手がテレビにいっぱい出る時代でもなかったじゃないですか。私はあまり“タラレバ”を話すことはないんですけど、でもきっと先に注目されていたら、結果が違っていたかもしれないって思うことはあります。

 無名の存在のまま代表の一員として、最後の調整を兼ねて欧州へ出発。ここでの決勝までの過ごし方が2つ目のターニングポイントとなった。

 岩崎 ずっと泳ぎ込みをしてました。とにかく距離もありますし、きつい内容だったので、ただきつい毎日でした。2部練習で1回8000~9000メートル泳ぐので、1日の合計は1万6000~1万8000メートルくらいはいっていたかなと思います。

 1年前の合宿を超える厳しさ。気が付くとゴーグルに涙がたまっていたこともあった。だが、想像を絶する練習が、伸びしろたっぷりの少女を変えた。泳ぎも進化を遂げ、ターンの改良に成功。タイムは一喜一憂しないために、あえて計測しなかったものの、調子の良さを感じるほど練習で手応えをつかんでいた。だからこそ、体調管理にも人一倍気を使っていた。

 岩崎 練習と試合は別物なんですよね。いくら練習で良くても、試合のちょっとしたことで緊張し過ぎてしまうと、力が入っていつも通りの泳ぎができないことがあるので、大会と練習は別物だと分かっていて、とにかく気をつけないといけないと思っていました。

 開会式の日になっても、浮かれることはなかった。通常多くの選手が開会式に参加するのにもかかわらず、レースは2日後だったことから、日本選手団の入場シーンはテレビで眺めていた。

 岩崎 開会式に出ると、帰ってくるのが夜中の2時とか3時になっちゃうんですね。そうすると、今まで作ってきたリズムが崩れてしまうので、夜9時くらいに寝るようなスケジュールでした。

 運命を変えたレース当日は、予選を2位で通過して決勝進出。大会前の目標を達成してしまったことで、気が抜けたような感覚すらあった。だが、それを見透かした日本代表ヘッドコーチの鈴木陽二氏のひと言で我に返った。

 岩崎 やっぱり「もう一回泳ぐからね」と言葉を掛けてもらったことで気持ちがリセットされて、決勝では今できることをやるしかないっていう思いが持てました。

 金メダルまでの軌跡を見ると、いくつもの分岐点がきれいに重なっていることは間違いない。それは本人も認めている。一方で、いろいろなことを犠牲にしてきたからこそつかんだ栄冠だと話す。

 岩崎 若さの勢いもありましたし、成長の時期がちょうどかみ合ったのもあるけど、スポーツにビギナーズラックっていうのはないです。学校終わりはいつも水泳の練習に行かないといけないので、遊んでいる友達を見ていいなと思ったこともありました。それなりに努力し続けてきましたから、もちろん運もあったけど、実力だったと思います。

 金メダル獲得後は、名言がクローズアップされ「14年しか生きていないくせに」などと猛バッシングを受けた。約2年間、記憶がなくなるほど追い込まれながらも、多くの壁を乗り越えて、96年のアトランタ五輪出場を果たすなど、負けじと一歩ずつ自らの足で道を切り開いた。世間からはまぐれと言われたこともあった。それでも、一人の少女が努力で成し遂げた偉業は、永遠に色あせることはない。

 ☆いわさき・きょうこ 1978年7月21日生まれ。静岡県出身。中学2年で出場した92年バルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎ決勝で2分26秒65の五輪新記録(当時)を叩き出し、競泳史上最年少(14歳6日)で金メダルを獲得。日本中の注目を一身に集めた。その後は、中傷などによる重圧等に打ち勝ち、96年のアトランタ五輪にも出場を果たした。20歳で引退後は、児童の指導法を学ぶために米国へ留学。現在は夢だった母親として子育てをする傍ら、指導者やコメンテーターとしても活躍している。