【元番記者が九重親方を悼む】平成が始まったばかりのころの名古屋場所だったと思う。「なぁ、それ伸ばしてんの?」。横綱千代の富士はニヤニヤしながらそう話しかけてきた。

 当時の私は30歳を超えたところ。年金をもらえるぐらいの大ベテランがわんさかといる相撲担当記者たちの中では完全な鼻タレだった。そこで少しでも貫禄があるように見せたいと、薄い口ひげを伸ばしていたのだ。

「うーん、やめたほうがいいなぁ。うん、やめとけ。似合わないよ。剃っちゃえ剃っちゃえ」

 確かにスカスカで貧弱だった。それでも何とか「ひげ」と認識してもらえるまで伸びてくれたのだ。何日か「まぁ、いいじゃないですか」と、はぐらかしていたのだが、ある日、全く予期していなかった言葉が飛んできた。

「なぁ、会社を代表して来てるってのは分かるし、ナメられないようにってのも分かるけどな、ひげを生やしたぐらいじゃどうにもならないぞ」

 見透かされていた。おくびにも出していなかったのに。土俵上そのままの鋭い観察力・洞察力。よく見ているからこそ「気負い」や「背伸び」といったものが分かったのだろう。

 次の日の朝、ひげを剃った私の背中をバシンと叩いて屈託のない笑顔を見せた千代の富士。記者として大切なことを学ばせてもらった気がする。最近は新聞で苦渋に満ちた顔しか見ていなかったが、あの日のウルフスマイルは一生忘れることはないだろう。ご冥福をお祈りします。