大相撲の第54代横綱輪島の輪島大士(本名・輪島博)さんが8日午後8時に下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱のため、東京・世田谷区の自宅で死去したことが9日、わかった。70歳だった。「黄金の左」の訃報には日本中に悲しみが広がったが、本紙では相撲時代はもちろん1986年のプロレス転向後も徹底密着して元横綱を追ってきた。2006年には本紙専属コメンテーターに就任。土俵、リング、紙面でさまざまな表情を見せてくれた輪島さんを、歴代の輪島番記者が秘話を公開し、追悼する。

 人一倍強い信念を持ち、人一倍の寂しがり屋で人一番の甘えん坊。それでいて人の心の中にズカズカと入り込んできて、わしづかみにしていく。いつの間にか「この男のために何かしてやろう」と横綱を知る者は誰もが思う。

 プロレス転向を決意した時の体重は90キロそこそこ。「人の前で裸になれない」と、米国修行時に電気ガマと米粒を担いでいったのは、後にも先にも横綱だけだ。おかずは地元・石川の名産、小糠(こんか)いわし。

 米国修行中に横綱が一度だけ涙を流した。無法地帯プエルトリコ遠征の時だ。試合後にプロレスの師、ジャイアント・馬場とシャワーをとった。背中を流した時に背中から大きなアカがボロボロと出た。大相撲の師、花籠親方(元幕内大ノ海)の背中を流した時に出たアカと同じ。2人の師匠の背中に横綱は何を感じたのだろうか。

 いよいよ日本デビューの相手が狂虎シンと決まった。テネシーで暴れていた佐藤昭雄とターザン後藤がシャーロットにやってきた。佐藤は三沢、川田を育てた名コーチ。横綱のリングインを何度もチェックし、走り上がり、手の上げ方、目線の置き方をチェックした。

 そしてシンのテーマソングを流し、後藤がシンの形態模写。あの特訓があったからこそシンとのデビュー戦で及第点がついたのだろう。

 米国修行の仕上げは、世界チャンピオン直前のボクサー、マイク・タイソンとの対談。粘り強い交渉の末にラスベガスで練習中のタイソンと面談したのもいい思い出。横綱も「オレはタイソンに会ったことがある」と自慢していたものだ。

 そして日本での戦いが始まった。横綱の相手は天龍がらみ。天龍の顔面キックでついたリングシューズのひも痕は、すさまじいのひと言。五目並べも可能ではないかなと思った。「あれをやられたらオレたちのやることがない」と他団体の全レスラーが顔をそむけたほどだった。

 あの世とやらには馬場夫妻をはじめ、横綱の付け人頭のロッキー羽田もいる。清らかに安らかに甘えてください。(元輪島番・川野辺修)

☆わじま・ひろし=1948年1月11日生まれ。石川県出身。日大相撲部から花籠部屋に入門し、70年初場所に幕下付け出しで初土俵。73年夏場所後に第54代横綱へ昇進した。優勝14回は歴代7位。横綱北の湖としのぎを削り「輪湖時代」を築いた。81年春場所を最後に現役を引退し、花籠親方として部屋を継承した。年寄名跡が絡んだ金銭トラブルで85年12月に廃業へ追い込まれ、その後はプロレスラー、タレント、アメフットの社会人チーム指導者なども務めた。2013年秋に咽頭がんが見つかり手術も受け、その影響で声を失った。