大相撲の第54代横綱輪島で「黄金の左」と呼ばれた左差しの攻めにより史上7位となる14度の幕内優勝を果たした輪島大士(本名・輪島博)さんが9日、死去した。70歳だった。

 石川・金沢高で国体を制し、日大で2度の学生横綱に輝くと、卒業前の1970年に花籠部屋に入門。同年初場所に幕下付け出しで初土俵を踏んだ。幕下を2場所連続で優勝して当時の最短記録で十両に昇進し、入門からわずか1年で新入幕。73年夏場所後に学生相撲出身で史上初めて横綱に昇進した。本名をしこ名にして最高位へ就いたのも初めてだった。

 2015年11月に死去した第55代横綱北の湖としのぎを削って「輪湖(りんこ)時代」を築き上げ、大相撲人気を支えた。直接対決での通算成績は輪島の23勝21敗。横綱同士での対戦成績は北の湖が18勝14敗と勝ち越していた。

 1981年春場所限りで現役を引退。花籠親方となって部屋を継承したが、年寄名跡を借金の担保に入れたことが発覚し85年12月に廃業した。

 その後はプロレスに転向し、86年に全日本プロレスに入門。同年11月1日に地元石川・七尾市で行われたタイガー・ジェット・シンとのデビュー戦は場外乱闘の末、5分55秒、両者反則で決着はつかなかった。ジャイアント馬場との米国遠征ではノド輪とかち上げを合体させた必殺技「ゴールデン・アームボンバー」を編み出し、存在感を示した。同じ相撲出身の天龍源一郎との激戦はプロレスファンの語り草となっている。

 88年12月にプロレスを引退すると、その後はタレント活動やアメフットのクラブチームの総監督にも就任。2009年にはNHKの大相撲中継に出演したが、不祥事で廃業した大相撲関係者としては異例のことだった。

 13年秋に咽頭がんが見つかり、手術も受けた。その影響で声を失い、北の湖が死去した際には文書で「俺はもう少し頑張る。お疲れさまと言いたい」などとコメントしていた。