【ラグビー】平尾誠二さん死去 昨秋からの激ヤセ姿にファン衝撃

2016年10月20日 16時30分

2012年に行われた「V7戦士チャリティーマッチ」でハツラツとしたプレーを披露する平尾誠二さん(手前)

 ラグビー界の貴公子があまりにも早く人生の幕を引いた。日本ラグビー史上屈指のスター選手としてW杯に出場するなど一時代を築いた平尾誠二さんが20日、死去した。53歳だった。神戸製鋼関係者が明らかにした。平尾さんは同志社大学で1980年代に史上初の大学選手権3連覇、神戸製鋼では日本選手権7連覇を達成、日本代表の主将と監督も務めた。CTB、SOとして鮮やかなステップとボールさばきを見せ、端正なルックスから「プリンス」とも称された平尾さん。その明晰な頭脳は、何よりも2019年W杯日本大会が必要としていた。

 死因など詳しい状況は20日昼の時点でまだ明らかにされていない。

 平尾さんに異変がささやかれたのは、日本代表がW杯イングランド大会で3勝する大活躍でラグビー人気復活の機運を呼んだ昨年秋ごろのことだった。日本テレビ系でW杯の解説を務めた平尾さんは、11月に同局の「バラエティー ラグビー生放送」に出演。やせた姿がファンや視聴者に衝撃を与え、病気ではないかとインターネット上で話題になった。

 年が明けてその“激やせ”ぶりは進行。実業家らとの対談記事がネット上でも見ることができるが、ほおがこけて目がくぼんだような印象をより強めた。それでも4月には異業種交流組織「毎日21世紀フォーラム」の例会で240人を前に講演するなど、社会貢献活動を続けていたが、89年にスコットランドを破った当時の日本代表が集まったイベントが6月に都内で行われた際、その姿はなかった。

 すでに病魔は日本ラグビー界きってのスターの肉体をむしばんでいた。19年W杯開幕まであと3年、神戸製鋼がトップリーグで5連勝(現在6勝1敗)と覇権奪回に向けて走り続けている中、53年で人生のノーサイドを迎えてしまった。

 平尾さんは63年、京都生まれ。人気テレビドラマの「スクール・ウォーズ」でモデルになった伏見工業高(当時)で山口良治監督の下、81年に全国高校ラグビー大会初優勝。名門・同志社大に進むと、史上初の全国大学選手権3連覇に貢献し、85年の日本選手権では名選手のSO松尾雄治率いる新日鉄釜石と対戦し、敗れて釜石の7連覇を許したが、スター対決でラグビー人気黄金時代の日本列島を沸かせた。

 同大卒業後は英国留学を経て神戸製鋼に入り、釜石と並ぶ日本選手権7連覇を達成。ポジションは高校時代のSOから徐々にCTBへと移り、チームの司令塔を務めた。同大時代に日本代表に選ばれ、87年の第1回から3大会連続でW杯に出場。91年大会では主将を任され、故宿沢広朗監督との名コンビでジンバブエ戦で日本のW杯初勝利を成し遂げた。

 第一線から退いた後は30代にして日本代表監督に就任。99年W杯で指揮を執るも、勝利を挙げられずに無念の敗退。その後に監督を離れ、近年では神戸製鋼のGMなどを務めた。社会貢献活動にも熱心で、特定非営利活動法人「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構」の設立や活動の中心となるなど、その活躍はラグビーの枠を超えていた。

 端正な顔立ちで口ひげがトレードマーク。バックスのセンターのポジションで抜群のキャプテンシーを発揮し、80年代後半から90年代前半の日本ラグビーを選手としてけん引した「顔」が早すぎる最期を遂げた。