閉塾した講道学舎 最後の塾長が明かす「伝説の秘話」

2015年03月10日 09時00分

左から吉田秀彦氏、澤田篤士、古賀稔彦氏

 数々の五輪メダリストを生み出した柔道私塾「講道学舎」(東京・世田谷区)が7日の閉塾式で40年の歴史に幕を下ろした。本紙は創始者の故横地治男理事長の孫で、最後の塾長を務めた全日本柔道連盟の北田典子理事(48)を直撃。1992年バルセロナ五輪でともに金メダルを獲得した“平成の三四郎”古賀稔彦氏(47)と“柔道王”吉田秀彦氏(45)の秘話や、“伝説の柔道家”故木村政彦氏との「密室トーク」などウラ話を一挙公開――。

 講道学舎は1975年、元陸軍少佐の横地理事長が設立し、私財を投じて日本柔道復興に尽力した。

 北田氏:戦争に負けて「日本を立て直さないといけない」という責任感の中で生きてきた人でした。みんな怖いというイメージは強かったんじゃないか。よく「覚悟しなさい」「決心をしろ」と言っていました。

 当時では珍しい中高一貫教育。「日本一」と呼ばれた過酷な練習は毎朝5時40分から始まった。

 北田:打ち込みを1時間半くらいやるんです。決まって大腰でした。背負い(投げ)の子も内股の子もみんな大腰。学舎出身の選手は技が切れる。その秘密がここにあるんです。腰がしっかりしているんですよ。

 バルセロナ五輪では古賀氏、吉田氏が金メダルを獲得。2人は青春の全てを柔道にささげた。

 北田:(古賀氏は)私より1コ下でした。でも口もきかないし、すごい偉そうでしたね(笑い)。私は時計係だったんです。大きい声を出せない時に「声が小さい! 聞こえない」と言われたことがありました。ご飯を食べるのも洗濯も常に全力。全くスキがない。「女としゃべるなんてそんな軽いことできない」という雰囲気もあった。6年間ほとんど口をきかなかったです。吉田君は絶対苦しい顔は見せなかった。高校3年になると他の学校は引退という時期。多少の気の緩みは出る。でも、吉田君は最後の最後まで道場に一番に上がってましたよね。「妥協しない、妥協しない、妥協しない…」とぶつぶつ言い聞かせながら階段を上がって行って、すごいなと思っていました。

 学舎には「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と呼ばれ、力道山とも戦った“鬼の木村”も足を運んだ。

 北田:木村先生は結構長いことお泊まりになってご指導されていました。私は毎晩お膳を部屋までお持ちして、木村先生のお食事が終わるまで正座して待っていました。いろんなお話をしてくれました。「あのなー、背中が彫れるんだ。きちっと彫れた場所に入れたら、そこが正しく入る場所。それを目指してやってたんだ」。木村先生は練習で木に背負い投げをかけられる。木はボコボコしているから、背中に傷がつく。正しい位置の時に傷がつくと(試合で)そこを目安にして背負いに入っていたんです。

“鬼の木村”の話は柔道に関するもの。北田氏にとって貴重な時だった。

 北田:電車に乗る時、つり革につかまりますよね。でも先生は「進行方向を向いて立ちなさい。カカトをつけないで床をかむようにバランスを取りなさい。それが一番きついから」と言うんです。だから女子高生の時やってましたよ。あとは「試合前は直前に爪を切っちゃいけない。3日前に切りなさい」とも。私は緊張して正座している。「足がしびれるだろう」と思って早く食べてくれるんです。そういう気遣いもしてくれるんです。

 77年にはなんと故ジョン・レノンがオノ・ヨーコとともにお忍びで訪れた。

 北田:キリスト様に見えた。フワーッて光ってるんですよ。座礼を好まれてみんなが心一つになるまで「もう1回、もう1回」と座礼をされていた。今考えればアーティストだから心を一つにすることを美としてとらえていたんだと思います。

 最盛期で63人の生徒を抱えた学舎だが、横地理事長が亡くなった後、年間1億円の維持費が経営を圧迫し閉塾した。しかし、その精神は弟子により永遠に受け継がれる。

 北田:学舎で学んだ人たちがどう柔道界に尽くしていくか。いろんな形で体現してくれるだろうと思っています。