柔道のバルセロナ五輪男子71キロ級金メダルで〝平成の三四郎〟こと古賀稔彦氏が24日に死去(享年53)。日本中が驚きと悲しみに包まれいるが、全日本柔道連盟の元強化委員長で、柔道私塾「講道学舎」時代から古賀さんを指導してきた師匠の吉村和郎氏(69)は2011年7月に本紙で「金メダリストのつくりかた」を連載。当時のインタビューから「三四郎伝説」を3回にわたって振り返る。

【代表辞退を握り潰す】

 古賀さんは2000年に現役を引退した。4月の全日本体重別選手権で1回戦負けを喫し、シドニー五輪の代表には選ばれなかったからだ。周囲からも「古賀はもうダメだ」の声もあった。

 吉村氏は「お前、これからどうするんだ?」と聞いたら、「私はボロボロになるまでやります」と口では答えていたという。1996年アトランタ五輪の決勝で不用意に警告をもらったことを引きずっていたのだ。「自分の柔道をすれば金メダルを取れていた」

 ただ、どこか気持ちが切れている自分がいるのも確かだった。吉村氏は「お前の柔道人生やから、お前が決めればいい」と決断は本人にゆだねることにした。そして〝平成の三四郎〟は、ついに現役を引退する。

 だが、そんな古賀さんは、そもそもアトランタ五輪への出場を辞退しようと考えていたことはあまり知られていない。

 当時、私生活で悩まされていた古賀さんは、強化選手辞退届を吉村氏に持ってきたことがあった。金メダルの可能性があるのに、吉村氏もおいそれと受け取ることはできない。柔道以外の原因ならなおさらだ。

「とにかく思いとどまらせようと思って、説得にあたったんよ。それで何とか翻意させた。五輪の最終選考会では負けたけど、過去の実績で代表入り。でも、あの時、辞退届は全柔連には出さず、オレのポッケの中で止めてた。出してたら、終わってたわ」

 結果的に銀メダルに終わったが、吉村氏が握り潰してくれなければ、古賀さんの柔道人生はまた違ったものになったことだろう。