現講道館館長・上村春樹氏 “怪物少年”山下泰裕との死闘 76年モントリオール五輪金メダルまでの軌跡

2020年09月16日 11時00分

76年全日本選手権、上村氏㊧は山下氏に執念の勝利

【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(24)】神永昭夫、ヘーシンクに敗れる――。五輪初採用となった1964年東京五輪柔道無差別級決勝、日本の夢は巨漢のオランダ人に打ち砕かれた。72年ミュンヘン五輪も同じオランダの赤鬼ルスカが優勝。欧州勢のパワーに苦しむ中、76年モントリオール五輪では、神永氏の弟子で現講道館館長の上村春樹氏(69)がついに悲願の金メダルを獲得した。本紙連載「フラッシュバック」前編は、神永氏に見いだされた174センチの小兵が“怪物少年”との2年越しの因縁対決を制し、五輪代表の座をつかむまでの軌跡を追った。 

 神永氏がヘーシンクに敗れた姿を、中2の柔道少年だった上村氏はテレビで見た。「負けた」とがっくりきたが、五輪など別世界の話だと思っていた。熊本・八代東高校時代も、インターハイにすら出場していない無名。しかし一度だけ代表に選ばれた国体で相手を投げる姿が「無印で面白いのがいる」とあの神永氏の目に留まる。「明大に来ないか?」。勧誘を受け、同氏が監督を務める名門に進学を決めた。

 上村氏(以下上村)神永先生は神様のような存在。うれしかったです。でも、すぐにレギュラーになれると思っていたら大間違いでした。3つある寮のうち、私は一番レギュラーに遠い選手用。ショックでした。練習では先輩たちにめちゃくちゃ投げられる。初めて講道館での試合に出たら、1回戦で絞められて気絶。審判に「負けましたよ」と言われたとき、もう柔道を辞めようと思った。タオルをかぶってじーっとしていたら、神永先生が「春樹、人並みにやっていたら人並みにしかならんぞ。まして素質のない者は人の2倍、3倍練習しないとチャンピオンにはなれない」と声をかけてくれた。辞めようと思っていた時だったのですごく心に響き、奮起しました。

 神永氏は、小柄な上村氏に「世界を狙いたいなら、担ぎ技も覚えなさい」とアドバイスした。

 上村 当時の私は1メートル74、100キロないくらい。得意の内股だけでは、無差別の2メートル近い連中相手には限界がある。担ぎ技、足技をもっとやりなさいと。それから1年間、私は内股を封印。高校の恩師の「技の上達の秘訣は身近な先生の技を盗むこと」という言葉を信じ、神永先生の得意技の体落としと大内刈りを徹底的にまねて猛練習しました。神永先生の靴底が右の内側だけ極端に減っていることに気づき、歩き方までまねました。

 大学卒業直後の73年4月、無差別で行われ柔道日本一を決める全日本選手権で初優勝。しかし周囲は上村氏を「小柄でスピード、パワーがなく外国人に通用しない」と厳しかった。ましてや選んだ就職先は宮崎・延岡の旭化成。当時は東京や大阪にいないと世界は取れないと言われていた。

 上村 全日本で勝ったら、あるコーチに「お前を海外遠征の代表に選ばなくちゃいけなくなったじゃないか」と言われたほど期待されていませんでした。100メートル走は17秒7。ベンチプレスも105キロしか上げられなかった。致命的ですよね。就職も「どこに行っても大丈夫です」と強気に言ったはいいが、想像以上に厳しかった。練習相手は少ない。その練習も、朝7時半からのレーヨン工場勤労課での仕事をこなしながらで、ついていくのがやっと。74年全日本で敗れた時には「上村は終わった」という言葉も耳にしました。

 見かねた上司たちが、手を差し伸べてくれた。

 上村 支社の広報に配属になると、上司たちが「上村を五輪で優勝させるプロジェクト」を始めて、毎月本を1冊くれるようになりました。感想も聞かれるので、しっかり読まなければいけない。ある時、糸川英夫先生(※1)の「逆転の発想」を渡され、はっとしました。視野が狭くなっていないか、と。そして「自分の武器はこの小ささだ」と気がついた。柔らかく、しなやかに攻め勝てる柔道をしようと。そして、練習方法を見直し、技の研究もものすごくやった。

 そこで常識を打ち破る技や練習法が生まれた。

 上村 スピードがなければタイミングをずらせばいい。柔道で初めて時間差攻撃をやりました。技をかけようとすると相手は逃げる。かけないと思わせたところでパーンとかける。その代わり、重心のかけ方をすごく工夫しないと、次の動作にはいけない。始めた練習は当時誰もやらなかった下り坂ダッシュ。重心の移動をうまくやらないと派手に転ぶ。これだと思った。いかに巧みに重心の移動をするか。柔道と一緒。受けにも攻撃にも効果がありました。

 再起をかけた75年全日本選手権で見事に優勝。一方で、日本中の期待と注目を集める初出場の17歳に大きな衝撃を受け、危機感を抱く。

 上村 私にはゲン担ぎのようなものがありました。(日本)武道館に行ったら必ず観客席を見渡し、父親の顔がはっきり見えてから控え席に入る。控えに入ったら相手をじっとにらみつけるんです。全日本の上位選手はにらみ返してきますが、5分もたつと疲れて汗をタオルで拭くふりをしてそらす。私は「よし勝った」と自分に言い聞かせて、試合に臨んでいました。でも準決勝で対戦した山下泰裕(※2)は違った。控え席から一切目をそらさず、組み合うまでにらみ返してきた。まだ17歳の高校生ですよ。私は7歳上。勝ちましたがぞっとしました。「こいつに引導を渡されるな」と。

 翌76年全日本はモントリオール五輪代表がかかる。当時は二宮和弘、高木長之助、遠藤純男の3人が優勝争いのライバルだったが、最も警戒したのは山下だった。

 上村 山下は絶対あの目で私を倒しにくる。山下対策の捨て身小内刈り(小内巻き込み)を1年間、誰にも見せず練習しました。他の3人は右利きなので、捨て身小内刈りはかからないし、使えない。山下対策だけ。結局、この技で山下に勝ちました。1年前のあの目がなかったら、私は負けて彼が五輪代表だった。ずっと後になって山下、斉藤仁と福岡の屋台で焼酎を飲んだ時「あの時、よく俺の目を見ていたな」と山下に言ったら「今でも覚えています。目をそらしたら負けると思ったんです」と言う。「何? 勝とうと思ったのか」と改めて恐ろしくなりました。私なんか最初は「出られてうれしい」だったのに。

 緻密な戦略で五輪代表を勝ち取った上村氏。“師の敵”を取るべく、モントリオールに乗り込んだ。(後編に続く)

 ※1 日本宇宙開発、ロケット開発の父と呼ばれた

 ※2 84年ロス五輪無差別級金メダリスト。全日本柔道連盟会長、日本オリンピック委員会会長、国際オリンピック委員会(IOC)委員

 ☆うえむら・はるき 1951年2月14日生まれ。熊本・下益城郡小川町(現宇城市)出身。小学5年で柔道を始める。明大に進学し、73年に旭化成に入社。同年4月、全日本選手権優勝。75年世界選手権ウィーン大会無差別級優勝。76年モントリオール五輪金メダル。引退後は指導者に転身。日本代表監督として88年ソウル、92年バルセロナ五輪を率いた。JOC常務理事、強化本部長、全柔連会長などを歴任。国際柔道連盟(IJF)理事。現講道館館長。