【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(17)】日本のお家芸「柔道」だが、その重量級は長く低迷が続く。特に最も重い男子100キロ超級での五輪金メダルは、2008年北京五輪で石井慧(33)が獲得したのが最後だ。創刊60周年を迎えた本紙連載「フラッシュバック」では、現在MMAファイターとして活躍する石井が五輪で勝つための仰天行動の数々を振り返った。さらに当時の国士舘大学柔道部と全日本の監督で、1984年ロサンゼルス、88年ソウル五輪男子95キロ超級金メダリストの斉藤仁さん(享年54)にも言及。恩師から言われた最も印象に残っている言葉とは――。 

 東スポ読者の皆様、お久しぶりです。石井です。今回は北京五輪のことをお話しさせていただくということで、よろしくお願いします。

 当時は代表入りが決まった時点で、僕は自分のことしか考えていませんでした。なぜなら、もうその時には「柔道はこれでやめよう。最後だ」と決めていたから。ただ、試合が近づくとそれすらも考えなくなって「空(くう)」になっていました。早い段階で腹が決まっていたんです。

「空」とは何かって? 先のことをなにも考えない状態ですね。勝てない時期やケガを経験して気づいたんですが、先のことを考えても何もいいことはないんですよ。いいことも悪いことも、考えすぎたらダメなんです。

 空に持っていくためにまず大事なのは、テレビの情報番組の朝の占いを見ないことです。皆さんもやってみてください。あの占いを見ないと結構簡単に誰でも空になれます。

 あと僕は土日にお寺や奥多摩の川を回りましたね。お寺は特に毘沙門天に携わるところへ行って心を静めました。川は、ヒクソン・グレイシーが試合前に山にこもってるって聞いたんで、そのマネです。瞑想したり、アントニオ猪木さんが丸太を振り回してトレーニングしていたって聞いたから、それをやったりしました。

 北京に入ってからは自分なりに決まっていたルーティンを守りました。いつもと同じ練習をして、中日のタイミングで市内観光に行くっていう。本当は「選手村の外でメシは食うな」って言われてたんですけど、市内観光の時は北京ダックも食いましたよ。文句言われても別に最後のつもりだったし、いつもの国際大会のルーティンなので。

 そういえばその時、天安門広場に行ったんですよ。そしたらメチャクチャ体が大きい女性に「一緒に写真を撮ってくれ」って言われて。よく見たらその人、ヒゲとワキ毛が生えてて「やっぱ中国は違うなあ」って思ったのをよく覚えています。あとはオナ禁もしました。2週間。お酒も同じくらいの時期からやめました。普段は両方とも1週間くらい前からやめるんですけど。五輪は特別なんで(笑い)。

 真面目な話に戻りましょうか。外国人選手も五輪となると顔つきが違うのは感じたし、それを考えるとやっぱり五輪は特別なんだなって思います。だから「世界選手権とか国際試合に勝ったから五輪でも勝てるだろ」っていう人がたまにいますけど、それは違うと思いますね。

 試合当日は体調も良かったし、やれることは全部やっていたからすがすがしい「空」で迎えることができました。決勝前も勝った後のことは一瞬も考えずにいられた。1秒先のことしか考えていなかった。逆に言えば考えないようにしていました。昔「ここで勝ったらやべえじゃん! ウヒョー!」とか考えてたら負けたことがあったんで。

 技も切れていたと思います。僕は堅実なタイプなんで、極力リスクを避けて戦いました。自分の中で100%確信を持てることしかしませんでした。特に印象に残っている試合や選手? いないです。すべて事前の想定通りに戦うことができましたから。

 それでも予想外だったことですか。うーん…、ほとんどなかったですけど、強いて言えば(フランス代表で現在五輪2連覇中の)テディ・リネールが勝ち上がってこなかったことですかね。でも当時は彼が来ても自信がありました。こちらには必勝の策がありましたから。ズバリ「反則誘発作戦」です。

 作戦の詳細ですか? 12年たちましたし、そろそろお話ししましょう。まずは審判員のトップ、モハメド・ラシュワン(注)と食事に行くことです。その上で試合では僕が一方的に攻めて、相手に技をかけさせないことで「攻めないとダメですよ」という意味の指導を誘発させるんです。リネールはケンカ四つが苦手で、僕は釣り手のさばきがピカイチなんで、2つは反則を取って勝てると思っていました。

 でも、どっちかというと大事なのはラシュワンですね。国際試合で日本に来た時、一緒によく水道橋へ牛タンを食べに行きました。ラシュワンは宗教上の理由(イスラム教)で牛タンしか食べられなかったので、岩釣兼生先生(ラシュワン氏の師匠、元全日本王者)とご一緒させていただいて。確かに、食事したくらいでなびくような人が審判長にはならないでしょう。でも、牛タンを食べながら「なんかの時はお願いしやすよー」と。ラシュワンも人の子ですからね。

 斉藤先生には、まず第一に、何よりも感謝しています。すごいプレッシャーをかけられましたけど「それでつぶれたらそれだけのヤツだった」という指導でした。どれくらいのプレッシャーかって? 帯状疱疹ができるくらいです。そのおかげで今はバッシングされても全く気にならないです。

「オリンピックのプレッシャーなんて、斉藤先生のプレッシャーに比べたら、もう、屁の突っ張りにもなりません」と発言したことについてですが、本当にそう思っていたから出ただけですよ。五輪のプレッシャーはなかった。それよりも当時は、斉藤先生が練習を見に来るプレッシャーの方が強かった。あの言葉が大きく報じられた時は「五輪ってこんなふうになるんだなあ」って思いましたねえ…。

 斉藤先生からは決勝で勝ってすぐ怒られたんですよ。最後に大外刈りにいったから。「ラスト1分に片足でかけるような、返される危険性のある技かけてんじゃないよ!」って。斉藤先生には「ここで終わりじゃないんだぞ」っていうのもあったんだと思います。

 あとは「猪木さんを見習え!」ってよく言われたのを覚えています。僕がヒールみたいな立ち位置だったっていうのもあって「スターにならないとダメなんだよ。猪木さんを見てみろ。猪木さんはビンタでお金を稼いでるだろ。スターにならないとビンタでお金を稼げないんだよ!」って。

 金メダルを取った後は「どうやって格闘技に行ったらいいんだろう」っていうことしか考えていなかったですね。金を取れなくても格闘技に行ったか? 僕は1回決めたら変えないんで、銀、銅でも格闘技をやっていたと思います。でも、絶対に金を取ると思っていましたね。日本国民として五輪は天皇陛下のために戦っているので、銀とか銅は絶対にダメだから。どう考えても、金以外はなかったと思います。

【五輪VTR】北京五輪8日目の8月15日、男子100キロ超級で石井は2回戦から登場。パオロ・ビアンケシ(イタリア)を3分23秒内股で退けると、3回戦はイスラム・シェハビ(エジプト)に2分41秒大内刈り、4回戦はタメルラン・トメノフ(ロシア)に4分44秒横四方固め、準決勝はラシャ・グゼジャニ(ジョージア)に4分49秒上四方固めと4試合連続一本勝ちで決勝に進んだ。金メダルがかかる一戦はアブドゥロ・タングリエフ(ウズベキスタン)に指導2つの優勢勝ちで優勝。五輪での最重量級最年少王者となった。

 ☆いしい・さとし 1986年12月19日生まれ。大阪・茨木市出身。2006年全日本柔道選手権で19歳4か月の史上最年少優勝。08年大会も制して北京五輪男子100キロ超級金メダリストに上り詰めた。五輪後に総合格闘技(MMA)に転向。09年大みそかにMMAデビューし、吉田秀彦に判定負け。18年12月にはセルビアのMMA団体「SBC」でヘビー級王座獲得。19年3月にも日本の総合格闘技イベント「HEAT44」で総合ルールヘビー級王者のカルリ・ギブレインに勝利しベルトを奪取した。戦績は23勝11敗(8月現在)。次戦は「HEAT47」(9月13日、東京タワーメディアセンター・スタジオアース)参戦を予定している。