【取材の裏側 現場ノート】地元のヒロインの言葉には〝五輪〟という舞台の厳しさ、偉大さ、壮大さ、全てが詰まっていた。

 北京五輪の開幕まで残り1か月半あまり。フィギュアスケートの代表争いに注目が集まる中、関係者から「良かったらおいでよ」と誘いを受けて2010年バンクーバー大会、14年ソチ大会と2大会連続で五輪に出場したプロフィギュアスケーター・鈴木明子さん(36)の講演会に足を運んだ。

 私と鈴木さんは同じ愛知・豊橋市生まれ。2度の五輪、数々の国際大会で活躍する「豊橋の星」をテレビ越しに応援してきたが、当時は「フィギュア王国=愛知」と言っても過言ではなかった。

 バンクーバー五輪銀メダルの浅田真央さん、世界選手権を2度制した安藤美姫さん、中野友加里さんなど、多数のライバルが身近にいた。鈴木さんは中学1年で初めて日の丸を背負ったものの「ジャンプは苦手だった」。ライバルたちがトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)や4回転ジャンプを決める姿を見て「できない劣等感や焦りがあった」と明かす。

 やがてその焦りが自身を苦しめることになった。「太ったらダメ。これ以上ジャンプが跳べなくなったらどうしよう」。過剰に体重を気にするあまり、大学進学後に摂食障害を発症。「スケートをやりたくて(大学があった)仙台に行ったのに」と途方に暮れた。医師からは入院を勧められた上で「スケートを続ける限り、体重にも捉われ続けてしまう」とスケート以外の道に進むことを提案された。

 だが、鈴木さんは諦めなかった。「もう1回氷に立つという目標を立てた方が治ると思った。両親と相談して入院せずに、自身と向き合うことにした」。フィギュア関係者の多くは「鈴木明子はもう終わった」との見方だった。それでも「スケートが好き。もう1回試合に出たい」との思いでリハビリを続け、氷上に帰ってきた。

 05年には日本選手権に出場。見事な復活を遂げた一方で、悔しさを味わった出来事もあった。当大会は06年トリノ五輪の代表選考会を兼ねていたこともあり、最終組のフリーの演技を客席から観戦。すると「元気だったら(最終組に)入れたかもね」「遠回りしたね」。自分の胸の内を代弁するような声が耳に入った。「少しカチンときた(笑い)。目標を達成したときに、病気は必要な道だったと言えるように。あの病気があったからって言えるようにしよう」と覚悟を決めた。

 昔から「五輪に行きたい」との目標を描きながらも、迷いから発言することができなかった。ところが、バンクーバー五輪の前年に初めて口にした。周囲に意志を示すことで、自らの行動に変化が生まれた。どうしたら五輪に行けるのか。今の自分に何が必要なのか。「終わったときに後悔をしたくない」。その一心で努力を続けた結果、2度五輪の舞台に立ち、12年世界選手権では銅メダルに輝いた。「五輪は行けたらいいなで行ける舞台ではない」。光も影も経験した鈴木さんのひと言は、今でも脳裏に焼き付いている。

 しかし、がむしゃらに鍛錬を重ねるあまり、心や体を壊してしまっては元も子もない。激しい運動や食事制限が原因で生理不順となった女子アスリートは、疲労骨折、骨粗しょう症等のリスクが高まるだけでなく、将来の心身の健康にまで悪影響を及ぼす可能性がある。夢を追いかけるのも素晴らしいことだと思うが、将来の芽を潰してまで追い込むのは違う。

 一度体を壊した鈴木さんだからこそ、伝えたい思いがある。「選手時代を人生のピークにしてしまうと、その後病気になってしまったりしたら、今まで自分が頑張ってきたことを肯定できなくなる。選手人生を謳歌して、引退後も幸せになってほしいし、スケートを通じてみんなが幸せになってほしい」。講演会の最後に、未来のオリンピアンたちへ優しく語りかけた。

 スポーツに取り組む以上、勝利を目指すのは当然だろう。ただ、スポーツに携わる選手、観客、誰もが〝楽しむ〟という原点を忘れてはならない。スポーツを愛する者として、一人でも多くの方がスポーツで幸せになってほしい。そのために私たちが取るべき行動は何なのか。改めてスポーツの意義を考えさせられた一日だった。

(五輪担当・中西崇太)