【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(20)】

「足が壊れるまで走りたい」。この言葉のごとく、最後まで我が身を削って駆け抜けたのが女子マラソンの野口みずき氏(42)だ。2004年アテネ五輪では日本勢同競技史上2人目の金メダルを獲得。しかし、連覇が期待された北京五輪は本番直前で無念の欠場となり、大きな波紋を呼んだ。創刊60周年を迎えた本紙連載「フラッシュバック」では、栄光と挫折の裏にあったドラマにフォーカス。そこには、努力を重ねてきた金メダリストならではの苦悩が隠されていた。

 野口氏は2000年シドニー五輪女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子氏の走りに刺激を受け、フルマラソンへの挑戦を決意。02年名古屋国際女子マラソン(現・名古屋ウィメンズマラソン)でいきなり優勝し、衝撃のデビューを果たした。03年世界選手権パリ大会の銀メダル獲得で、04年アテネ五輪の代表に内定。確かな手応えを胸に、初の大舞台へ挑もうとしていた。

 野口氏(以下野口)1年くらいは準備期間があったので、1か月に1回レースに出ることで、モチベーションを保つ計画をしていました。また、事前合宿もパリ(世界選手権)の前に行ったスイス・サンモリッツでやっていたので、パリのときのタイムを意識しながら練習できました。40キロとかを走りながら(ゴール地点の)パナシナイコ競技場に1番で入ってくるイメージ、ゴールテープを1番に切るイメージとか、そういうのをすごく持って走れました。

 あえて、パートナーのランナーを連れていかず、黙々と走り続けることで、イメージトレーニングを積んだ。徹底的に追い込む中、部屋で号泣したり、偶然UFOを見掛けたこともあったという。そんな厳しい練習に励む一方で、大会直前にはハプニングに見舞われた。

 野口 スイスからアテネに行く間に、1週間くらいドイツ・フランクフルトで合宿をしたんですよね。そうしたら、ホテルの冷房が極端で、日本みたいに細かく温度調整ができなかった。めちゃくちゃ寒くて、そこでちょっと風邪をひいちゃったんですよ。でも、精神的な気持ちの部分は風邪のおかげで吹っ切れました。

 まさかの風邪もプラスに変え、04年8月22日、本番のレースがスタート。序盤10キロで軽い熱中症による吐き気を覚えながらも、必死に走った。27キロ付近で先頭集団から抜け出すと、30キロ過ぎからは独走態勢。イメージ通りの走りで見事金メダルに輝いた。ところが、本人は満足していなかった。

 野口 通過点みたいな感じだった。なんか大きい目標は達成したけど、そこが最大の目標ではない。金メダルの上にはプラチナがないし、みたいな。なので、次は記録だっていうふうに気持ちをチェンジして、すぐにトレーニングに入れましたね。

 すると、05年9月のベルリンマラソンでアジア最高記録(2時間19分12秒)をマーク。06年は練習中に腰を強打するアクシデントに見舞われた。のちの大ケガの要因となるが、当時はきっちりとケガ前の状態に戻すことができた。そして、07年東京国際女子マラソンでは復活V。08年北京五輪への出場を確実にした。ただ、それは同時に長い苦難の道のりの始まりだった。

 野口 北京に向けてやっていくときにディフェンディングチャンピオンのプレッシャーだったり、精神的に自分で追い込み過ぎて、周りをゆっくり見れない感じになっちゃった。まだやらなきゃって、(走る)距離とか本数を無理した部分があった。北京はアップダウンが少ないコースなのに、アップダウンに対応するような結構きついところを自分で選んで走ったりして、なんかあおり過ぎてしまったんです。

 前回王者にしか分からない重圧。マスコミや周囲の期待が、少しずつ野口の歯車を狂わせた。アテネ五輪時と同様に、サンモリッツで合宿を行っていた大会直前のある日。限界を迎えていた脚が無情にも肉離れを起こしてしまったのだ。

 野口 やばいって、なにこれってびっくりしましたね。なんか骨のケガだったら比較的すぐに治るんですよ。でも筋肉は本当にやっかい。私も五輪欠場は避けたいって思ったので、どんな状態でも。もう痛いのに、痛みが治まっていないのに無理してジョグをしてしまったり。本当にしんどかったですね、あれは。やるしかないって思っていたのがいけなかった。本当にちょっとの間、何もしなかったら、もしかしたら出られていたかもしれない。

 8月4日に緊急帰国。懸命に治療を行うも、06年にアスリートの体の核である腰をケガしていたこともあり、脚の状態が思うように回復することはなかった。本人は強行出場する気でいたものの、監督らの判断で欠場を決断。12日に発表されると「非国民だ」などと、やゆする人たちまで現れた。そこで、療養を兼ね、コーチと極秘で北海道・別海町に足を運んだ。

 野口(欠場が発表されてからは)本当に寮の周りとかはすごい人だった。マラソン本番は別海のホテルで見させてもらったけど、つらかったなって。なんか北海道に行って気分転換にきれいなところで(リハビリを)やらせてもらったので、だんだんと気持ちは落ち着いてきた。レースを見ていても、悔しい気持ちはものすごくありましたけど、でもなんか精神的におかしくなるまでは全然ならなくて、応援してくれる人に元気な姿を見せたいなって思う一心でした。

 北の大地で気持ちを切り替え、次のステップに進むはずだった。だが、ケガは予想以上に長引き、2年以上もレースに出場することができなかった。復帰後も、レース中に脚に力が入らなくなる「ぬけぬけ病」を発症するなど、なかなかトンネルを抜け出せなかった。13年には世界選手権(モスクワ)に出場するも、途中棄権。結局、五輪の舞台に戻ることができないまま、16年に現役を退いた。だが、後悔はなかった。

 野口 もう本当に思い残すことがないくらい、いいことも悪いことも本当にマラソンのようにありましたけど、最高だったなって。もう悔いは全然ないっていう感じで、ほとんどが有言実行できた。最高の競技人生を送れたっていう、このひと言ですね。

 どんな時も歩みを止めなかった野口氏の雄姿は、まさに陸上を愛する女性そのもの。アテネ五輪での栄光、その後の苦しんだ日々、日本陸上界の歴史に残る様々な出来事は、全て“好き”という気持ちから生まれた神様からのプレゼントだったのかもしれない。

 ☆のぐち・みずき 1978年7月3日生まれ。三重県出身。2003年世界選手権で銀メダルを獲得し、04年アテネ五輪では金メダル。05年ベルリンマラソンでマークした男女混合レースでのアジア最高記録は今も破られていない。08年北京五輪は2大会連続の金メダルが期待されたが、直前の故障で無念の欠場。その後は、度重なるケガと闘いながら現役を続け、13年には世界選手権出場を果たした。16年に引退し、同年7月に結婚。現在は、岩谷産業陸上部でアドバイザーを務める。