【ロシア・ソチ発】原田雅彦、船木和喜、岡部孝信、斉藤浩哉の史上最強メンバーで金メダルを獲得した長野五輪ジャンプ団体から16年。“レジェンド”葛西紀明(41=土屋ホーム)に率いられた、伊東大貴(28=雪印メグミルク)、竹内択(26=北野建設)、清水礼留飛(20=雪印メグミルク)は、それぞれ持ち味を発揮し、銅メダルを手にした。“ソチ版日の丸飛行隊”メンバーの素顔を一挙公開――。

【進化する20歳...清水礼留飛】

 20歳の若武者が日本に勢いをつけた。重圧のかかる1番手で飛んだが、1本目いきなりK点越えの132・5メートル、2本目も131・5メートル。度胸と天性の勝負強さでトップバッターの重責を見事に果たした。

 新潟県妙高市出身。名前の礼留飛(れるひ)は1911年に日本にスキーを伝えたとされるオーストリア人のテオドール・フォン・レルヒ少佐に由来する。元ジャンプ選手だった父親が名づけ、小学校2年からスキーを始めた。もともとは複合の選手で、中学3年時には全国大会で優勝するほどの実力者だった。ただ、クロスカントリーよりジャンプの成績が飛び抜けてよかった。全日本スキー連盟(SAJ)の勧めもあり高校3年の春にジャンプ選手に転向した。

 転向後は肉体改造に励んだ。複合の選手は上半身の筋肉がたくましい。清水は体のバランスの適正化に時間を費やした。「(クロカンで)ストックを押す上半身の筋肉がついてしまっているので、それを落とすのに苦労した。上半身のトレーニングはさせないですし、だんだん落ちていくのを待っていた」(横川朝治コーチ)

 まだまだ発展途上の若武者。「ものすごく緊張したけれど、いいジャンプができた。僕の力ではなく、苦労して頑張ってきた先輩たちのおかげ。感謝したい」(清水)。この経験を糧に4年後の平昌五輪はエースに成長するはすだ。

【世界屈指の美しい飛型...伊東大貴】

 ソチでは直前に左ヒザ裏の負傷に苦しんだ伊東が見事に復調した。130メートル越えのジャンプを2本揃えて銅メダルに貢献。伊東は「何とかメダルは取りたいなと思っていた。精一杯頑張れた。(左ヒザは)痛かった。つらかったです。持ってよかった…」と苦闘の末の栄冠に涙を見せた。

 早くから未来の日本を担うエース候補として期待された。小学校4年でジャンプを始め、中学になると一気に頭角を現す。その特徴は低い姿勢でどこまでも飛んでいく、美しい飛型にある。「伊東大貴のジャンプは世界的に理想と言われている。低くても落ちない。エネルギーもいらないし、空中もしっかり浮力を得ている」(横川コーチ)

 大倉山のバッケンレコード(146メートル)も伊東が保持。W杯などの国際大会では伊東のジャンプを少しでも吸収しようと、多くの選手が身を乗り出してジャンプを見つめている。ただ、本人はいたって控えめだ。むしろ理想の飛型は真逆だという。「ボクは高く飛びたいですけどね。自分のジャンプが好きかって言われたら、あんまり好きじゃないです」。このジレンマこそが伊東の探究心の源だ。

 メンバー中、唯一、ソチのジャンプ台の経験がない不利も乗り越え、日の丸飛行隊の「エース」として十分すぎる役目を果たした。

【難病に苦しんだ苦労人...竹内拓】

 竹内のソチは風よりも病気との闘いだった。

 持病のぜんそくに苦しみ、1月には難病の「チャーグ・ストラウス症候群」(血管に炎症が生じる疾患)で緊急入院。W杯から離脱し、長野での調整を余儀なくされた。五輪で万全な状態に合わせるため、通常の40倍という量のステロイドを服用し続けた。免疫力の低下でホルモンバランスが崩れた状態になり、顔はにきびだらけになった。

「1か月飲み続けると、骨粗鬆症になるみたいです。量を落としてもいいけど、五輪で体調悪くなるから落とせない。五輪が終わるまでは飲み続ける」(竹内)

 自らの体を限界まで犠牲にし、メダル獲得にすべてをかけた。この日は2本とも手堅くまとめ、日の丸飛行隊の勢いを落とさなかった。竹内は「(同じ病気の人に)あきらめないで頑張ればかなうと伝えたかった」。実力全開とはいかなかったが、病に打ち勝ち「精一杯のジャンプです」と胸を張った。

 イケメンで、おしゃれにも気を配る。指輪やブレスレットなどアクセサリーはすべて高級ジュエリーブランド「クロムハーツ」で揃え、センスも抜群。4人兄弟で四男の寿(とし=20)はホリプロ所属のモデルだ。中学1年で2歳上の伊東に勝利するなど、早くから才能を発揮。中学卒業後、単身でフィンランドにスキー留学した。現地では木工職人を養成する職業学校に通いながら3年間、ジャンプの腕を磨いた苦労人でもある。