【1989年10月22日F1日本GP決勝】セナVSプロスト決戦前夜の心理戦

2020年10月14日 11時00分

89年、シケインで接触したマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナ(左)とアラン・プロスト(右)

【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(27)】 1980年代末から90年代初頭にかけて一大ブームを巻き起こしたのが、モータースポーツ最高峰の戦いとされるF1だ。毎年10月、三重・鈴鹿サーキットで行われる日本グランプリ(GP)で最も熱いバトルだったのが“音速の貴公子”アイルトン・セナと“プロフェッサー”アラン・プロストによる「セナ・プロ対決」。本紙連載「フラッシュバック」ではモータースポーツジャーナリストの小倉茂徳氏が当時の激戦を振り返り、特別寄稿。マクラーレン・ホンダの同僚でもあった2人の遺恨と狡猾な心理戦の裏側に迫った。

 F1日本GPは1987年から毎年開催されてきた。開催当初から大人気で、チケットは往復ハガキによる応募抽選の方法で販売され、すべて完売という状況。ホンダエンジンの活躍、レイトンハウスなどの日本のスポンサーやチームの参戦、F1のテレビ中継もあって、30年ほど前の日本では、F1が社会現象になるほど大流行した。「ポールポジション」「リタイア」などのレース専門用語が一般に使われるようになったのもこのころから。今では漫才頂上決戦「M―1グランプリ」など「F1GP」から派生した「○―1GP」という名称が、さまざまなイベントで使われ浸透している。

 F1人気の最大の原動力となったのが、80年代末から90年代初頭にかけて繰り広げられたセナとプロストによる激しい王座争いだった。

 2人は88年にマクラーレンチームで一緒になった。プロストは84年から同チームに在籍し、85、86年に王座を獲得。チームの主導権を握り、待遇面で優先されるエースは当然自分だと思っていた。一方、当時伸び盛りだったセナは、ロータスからマクラーレンにホンダのエンジンとともに移籍。当時最強エンジンをチームにもたらしたのは自分であり、プロストと同等の待遇であると考えていた。

 そんな考え方の2人だから、当然“両雄並び立たず”の状態になる。第2戦サンマリノGPで2人の不仲が表面化し、第13戦ポルトガルGPでは、ブロックされた、幅寄せされたと、険悪な関係に発展。第14戦スペインGPでは、セナもプロストも異口同音に「ホンダは自分が不利になるように、エンジンを調整している」とまで言いだした。実際は、セナとプロストではアクセルワークが全く異なるため、エンジンをそれぞれのアクセル操作に最適化させただけのことだったが…。

 両者が疑心暗鬼になるまで陥った中で第15戦の日本GPを迎えた。ここでセナが優勝し、F1ワールドチャンピオンを初獲得。この年のセナとプロストは、マクラーレン・ホンダという最強マシンで激戦を繰り広げたことで他を圧倒した。2人合わせて16戦15勝という驚異的な優勝記録まで打ち立てていた。

 翌89年はこの2人の同門対決がより激しくなった。もっぱら速さを武器に勝負をかけるセナに対して、経験豊富なプロストはレース戦略や自分の周りとうまく立ち回ることでより有利な状況をつくり出そうとしていた。そんな状況を、テレビなどは「善玉=セナ」「悪役=プロスト」といったロールプレーイングゲームのように誇張して紹介。これがまた多くの人々の興味を引いた。

 89年の2人の激しい王座争いのピークは日本GP。この時はプロストがやや優勢の状況だった。

 決勝前夜、プロストはマクラーレンのピット裏でフランスの報道陣の囲み取材を受けていた。鈴鹿でセナを制して王座に就くためには決勝をどう戦うのか、という質問にプロストは笑いながらこう答えていた。

「それは簡単だ。鈴鹿の追い抜きどころは1コーナーと最終のシケインだけだ。だから、スタートで前に出て、あとはその2か所さえ閉めて抜かれないようにしておけば、楽勝だ」

 プロストの視界には、そばでその会話に聞き耳を立てていたセナの姿があった。セナは話を聞いていることを見せつけることで、そしてプロストもあえて戦略を聞かせることで、互いにプレッシャーをかけるという心理戦だった。

 10月22日の決勝、プロストは前夜の言葉通り、スタートでセナの前のトップに躍り出た。前夜の言葉通り、プロストはくだんの2か所を閉める。セナは、なかなかプロストを抜けない。そんな中、レース終盤にシケインの入り口でプロストのインにほんのわずかな空間ができた。セナはすかさずそこに飛び込んだ。しかし、それではその先の直角カーブを通過できない。両者は接触。プロストは即座にマシンを降りた。両者リタイアなら、自身のチャンピオンが確定するからだ。

 一方、セナは王座への望みをかけてレースを続行。鬼神のような走りでトップでゴールした。しかし、プロストとの接触後のコース復帰の仕方がルール違反(シケイン不通過)とみなされ、失格となった。

 これでチャンピオンの称号はプロストのもとに。しかも、この裁定にはプロストと同じフランス人でFISA(国際モータースポーツ連盟)のJ・M・バレストル会長の圧力もあった。バレストル会長はさらに接触を巡ってセナを危険なドライバーだと非難した。セナにとっては大きな遺恨を生む結果となった。

 90年、プロストはフェラーリに移籍。10月21日に決勝を迎えた日本GPは、またしてもこの2人による王座決定戦となった。ここではセナがやや有利だった。

 スタート直後に先頭を奪ったのはプロスト。だが、1コーナーでプロストイン側のわずかな空間にセナがマシンをねじ込み、2台は接触してコースアウト。スタートから8秒余りで両者リタイアとなり、セナが王座を奪還した。実力者たちが次々とリタイアする中で、ラルースの鈴木亜久里が3位に入り、日本人初の表彰台という快挙を達成したのもこの年のことだった。

 1年後の鈴鹿で、セナはこの1コーナーでの接触について、故意にやったと明かした。激しいライバル争い、王座争いもさることながら、その前年に危険なドライバーと非難されたことなど、様々な思いが交じりあってのことだったと涙ながらに告白した。

 セナ・プロ時代の激しい戦いは93年のプロスト引退まで続いた。そして94年5月1日、第3戦サンマリノGPの放送席で解説者となったプロストに、セナは「君がいないと寂しいよ」というメッセージを走行中のコックピットから無線で送った。だが、セナはその日の午後の決勝中に事故で悲運の死を遂げた。

 一つの熱く激しい時代は終わった。しかし、その後もミハエル・シューマッハ、ミカ・ハッキネン、フェルナンド・アロンソ、セバスチャン・フェテル、ルイス・ハミルトンといったトップドライバーたちの熱い戦いが、日本GPでは繰り広げられた。一時は落ち込んだ観客数も近年は再び伸び、ブームのころのような仮設スタンドまで建てるようにもなっていた。

 今年のF1日本GPは、新型コロナウイルスの影響で開催中止。新たな戦いは来年以降に持ち越しとなってしまった。だが楽しみは多い。現在F1直下のF2で善戦している角田裕毅(20)も昇格して、日本人ドライバーが戦う日本GPの復活にもなりそうだ。

 ☆おぐら・しげのり 1962年、東京生まれ。早大卒業翌年の87年にホンダF1チームの現地広報スタッフを担当し、アイルトン・セナ、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケ、アラン・プロスト、中嶋悟らと働く。以後F1、インディカー、WEC(世界耐久選手権)、国内レースなどを取材。DAZNでのF1配信番組で解説も行っている。モータースポーツ界に30年以上従事し、ドライバーやチーム関係者との親交も深い。

関連タグ: