【前園連載17】スペイン移籍破談で横浜Fフロントと大きな溝

2014年05月07日 12時00分

アトランタ五輪の激闘を終えた前園に複数クラブからオファーが届いたが…
前園真聖「流浪の天才ドリブラー」(17)

 1996年夏。アトランタ五輪の激闘を終えた私は、日本代表とJリーグの戦いに臨んだ。このころは五輪で体感した世界をかなり意識し始めていたけど、実際に大きな動きがあった。イングランドやスペインの複数クラブからオファーが届いたんだ。自分が知ったのは五輪後のことだが、かなり前から打診はあったそうだ。

 横浜フリューゲルスから「一切口外するな」と厳命されていたので話す機会はなかったけど、実はアトレチコ・マドリードやセビリアから頻繁に連絡が入っていたんだ。その中で正式オファーを出してきたのはセビリアだった。

 当時Jリーグから海外に出たのはイタリア・ジェノアに移籍したFW三浦知良(現J2横浜FC)さんくらい。オファーがあることを聞き、自分の中では海外進出の気持ちは固まっていた。そんな中、セビリアの担当者ロサンド・カベサスGMが視察のため来日。私自身もGMと会ってあいさつ程度の話はしたが、まずはクラブ間交渉の行方を見守ることになった。

 この際、クラブ側から聞いていた説明は「前園の気持ちは理解するけど…」と前置きがあった上で、横浜FがJリーグで優勝争いをしていたことに加え、巨額な移籍金が発生することが伝えられた。当時23歳だったのでJリーグの規定で移籍金は3億5000万円。この金額が打倒なのかも判断できないまま、正式交渉に入った。

 ただクラブ間交渉が始まってもいい話は全く聞こえなかった。交渉でネックとなったのは移籍金。クラブも初めてのことで、交渉の方法も分かっていないから、満額となる3億5000万円にこだわったそうだ。でも当時の欧州では満額の移籍金を支払うことなく、あくまで目安と考えられていたという。それでも横浜Fは金銭面で妥協しなかったため、交渉は打ち切られた。この時点で96年シーズンオフのスペイン移籍は破談となったんだ。

 クラブ間交渉のことは横浜Fのスタッフから聞いた話なので、いまでも実際の交渉の経緯や決裂の真相は分からない。ただ海外進出を強く熱望していた自分の中で、なにかがはじけてしまった。横浜Fを嫌いになったわけではないけど、交渉をまとめられなかったフロント陣との間に大きな溝を感じるようになった。

 海外移籍の実現に向けJリーグでは初めて代理人(弁護士)と契約したことも「生意気」と受け取られていたし「正直どうすればいいのか」と戸惑っていたんだ。破談になってから、最終的に「スペインでプレーしたい」という明確な目標を自分の中で確認。そこに迷いはなかった。あとは、この状況で一刻も早く海外進出を実現するためにはどうしたらいいのか…。あてがあったわけではないけど、とにかく「ここにはいられない」と思い、96年末までに横浜Fを離れる決意を固めていた。