【前園連載12】西野監督が「お前しかいない」主将として五輪チームに専念

2014年05月02日 12時00分

28年ぶりの五輪出場に向けて意欲を語る西野監督、前園、川口(左から)
前園真聖「流浪の天才ドリブラー」(12)

 1994年3月、私は日本代表に初選出され、同10月には広島アジア大会に臨んだが、宿敵韓国に敗れ、ベスト8で終わった。とても悔しかったけれど、自分の中ではA代表で戦うための手応えをつかみかけた。同大会敗退の責任を取り、ファルカン監督は更迭され、95年になると加茂周氏が日本代表監督に就任した。

 私が日本代表に選出されたころ、96年アトランタ五輪を目指すチームが本格始動。68年メキシコ五輪以来、28年ぶりの出場が最大目標だった。93年にJリーグが発足して初の五輪予選で、全員がプロ選手ということで周囲の期待も高まっていた。五輪のサッカー男子は23歳以下という年齢制限があり、私もA代表と兼任で五輪チームの合宿や遠征にも参加。95年1月のオーストラリア遠征では、西野朗監督から「お前しかいない」と主将に指名された。

 当時まだ21歳の私にとってA代表と五輪チームの兼任は非常にキツかったなあ。オーストラリア遠征後の2月にはA代表のダイナスティカップ(香港)にも参戦。それが終わるとすぐに五輪チームへ…。正直もうヘトヘトだった。そんな中、西野監督からこんな連絡があった。「お前は五輪チームに絶対に必要な選手だし、オレは加茂サンにも妥協する気はない。お前からも加茂サンに(五輪チーム優先を)言ってくれ」というんだ。

 実はこのころ、日本サッカー協会では23歳以下の日本代表の選手を、A代表か五輪チームの「どちらかに専念させよう」という議論が起きていた。まだW杯予選も始まっていなかったし、私も子供のころから見てきた五輪には強い関心があった。年齢制限があるため同世代の仲間だけで戦うことに責任感が高まっていたこともあるし、自分の中では「五輪専念」だった。

 その後、西野監督と加茂監督の間でも、何度も話し合いが行われた。その結果、アトランタが終わるまで五輪に専念することに決まったそうだ。それを聞いた瞬間はモチベーションも急上昇したね。キャプテンだったし、これまで以上に使命感も芽生えた。そして95年5月、いよいよアトランタ五輪アジア1次予選が始まり、ホーム&アウェーの4試合を全勝で突破した。自分もしっかりと持ち味を発揮できたし、チームの戦い方も良くなっていた。

 これまではアジア1次予選を突破するにも苦労していたが、圧倒的な強さで勝ち上がり、周囲も「28年ぶりの五輪出場」への期待で盛り上がった。私も少しずつプレッシャーを感じるようになっていた。そんな時、チームに思わぬアクシデントが…。96年2月のマレーシア合宿中にエースのFW小倉隆史がまさかの負傷で離脱。大きなショックを受けたが逆に「オグの分まで」とチームの結束は高まったね。

 そして96年3月、私たちは28年ぶりの出場をかけ、五輪アジア最終予選(マレーシア)に臨んだのだった。