2万人を超える死者、行方不明者、関連死者を出した東日本大震災から11日で7年がたった。午後2時46分には各地で黙とうと式典が行われ、テレビ各局も震災特集を放送。いまだ7万人以上が避難生活を送っており、復興を遂げたとは言いがたい。あのときに現場でつらい思いをした人々は前に進もうとしている一方、震災の“爪痕”も残している。

 11日は各地で追悼行事が行われたほか、被害の大きかった岩手・宮城・福島の3県警は、津波被害に遭った海岸や河川敷で行方不明者の集中捜索を行った。7年分の層が重なっていて、骨や所持品を見つけるのは容易ではない。それでも家族は「何か手がかりがあれば」と希望を託す。警察庁によると、死者は1万5895人。行方不明者は2539人に上る。

 東京電力福島第1原発事故によって避難指示が出されていた福島県南相馬市原町区では、避難生活から戻った男性が「時間になったらサイレンが聞こえてきたので、海の方を向いて黙とうをささげました」と話した。

 地区には約5分の1の世帯しか戻ってきていない。毎月2回、住民らが集まるサロンで情報を共有しているが「夜になって、ふと気付くと『あ、今日は誰ともひと言もしゃべらなかったな』ということがよくある」(前同)。

 復興庁によると、震災関連死は昨年9月末時点で3647人。避難生活のストレスによる体調悪化が原因の死亡もこれに含まれる。避難所、仮設住宅、復興住宅と拠点を転々と変えることで、そのたびにコミュニティーも変化する負担は想像より大きいのだ。

 原発事故当時、原発から程近い場所にある病院で働いていた看護師が語る。「あのとき、私たちは病院の患者を脱出させるまで必死に働いてました。その後で、福島を離れた人もいます。私も東京にいる家族を頼って移動しました。病院に残った人もいます」

 今月、知り合いの結婚式で7年前の職場の看護師らと再会した。「『あの後、○○さんと、××さんががんと脳卒中で亡くなったんだよ』と聞かされました。2人とも先輩看護師で40代の女性です。放射能の影響ではないと思いますが、何か切ない気持ちになりました」

 多くの人が当時の傷を抱えて生きている。都内の精神科で働く看護師も「11日が近づくと震災の番組が増える。当時の映像を見て動悸やパニックを起こす人もいて、この期間中はテレビをつけられない」と語る。

 だが、鬱々としているのは体に毒だ。前出の男性は「何かしているほうが楽」と話す。もともとの趣味だった養蜂を本格的にスタートした。「ニホンミツバチはなかなか巣に居ついてくれないけど、西洋ミツバチは比較的飼育が簡単。今の時期は菜の花、夏になったらヒマワリを植えようと思っている。今はもう5ヘクタールの土地に菜の花を咲かせました」

 地域の仲間も興味を持って、養蜂に関わったという。「今は趣味の域を出ないですけど、これが拡大していって、花を見に来てくれる人が増えたり、蜂蜜が特産品になればいいと思っています。だんだんとね。進めばいい」(男性)。傷痕は深い。