8月15日で終戦から70年。第2次大戦中の国民は口々に「鬼畜米英」と唱えていた通り、日本は米国と並んで英国とも激しく敵対していた。ミッドウェー海戦や戦艦大和のごう沈など、対米戦の大敗は、振り返られることが多いが、対英戦については語られることは少なくなった。日本が最後に行った戦争から、陸軍壊滅の戦いと知られた対英戦「インパール作戦」にスポットを当て、ノンフィクションライターせりしゅんや氏が戦場だったミャンマー(当時ビルマ)とインドの国境に向かった。そこで見たものは――。

 国会図書館には、インパール作戦の発案者である大日本帝国陸軍中将の牟田口廉也氏(故人)が、1965年に行った同作戦への弁明が録音保存されている。内容は主に「作戦は成功目前で自身に落ち度はなかった」というものだ。


 同氏は66年に死去するまで謝罪の言葉を口にしなかったため、マスメディアは、その人格を問題視している。ご遺族もすでにこの戦いには心を閉ざしている。


 ビルマ(現ミャンマー)側を占拠した日本軍とインドを支配していた英国軍をさえぎった険しすぎる山岳地帯。その間には食糧や弾薬を運べない“自然の要塞”がある。ここを「あせって越えた軍が負ける」という状況の中で44年3月、日本軍は英印軍の拠点、インド北東部インパールを目指して、およそ8万5600人もの兵を動かした。


 牟田口氏が自画自賛した牛やヤギで荷物を運んでそれを食べる“ジンギスカン作戦”も川や崖で物資を損失し失敗。結果、日本軍は大敗した。以後の日本軍は終戦まで連合国軍に圧倒されており、インパール作戦は、帝国陸軍崩壊の始まりといえる。


 作戦では食糧どころか弾薬の補給まで軽視しただけに、牟田口氏は過剰な根性主義者と思われることが多い。ただ戦史学者の荒川憲一氏は、牟田口氏について「当時の軍人では異端的な性格ではない」と分析している。


 先月下旬、ミャンマー西部に、フジテレビの終戦特番「私たちに戦争を教えてください」(15日午後7時放送)のスタッフと向かった。インパール作戦が繰り広げられた現場で、外国メディア初潜入のルートに迫った。


 インドとの国境周辺にあるタナン村から西へ、険しい山を越えた。日本軍が進軍と敗走の両方で使った道だ。山道は粘土のように軟らかく、崖から多くの岩が崩れていた。蚊はマラリアやデング熱、水はアメーバ赤痢などの感染症の危険性をはらんでいる。


 インパール作戦における日本兵の戦死者数は推定3万人。ご存命の元日本兵は「あまりに過酷なゆえ、行軍中に手りゅう弾で自決した戦死者も多い」と振り返っていた。当時の日本兵の間では「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」という決まり文句があったという。


 豪雨と敵の砲弾にさらされる中、71年前の陸軍兵士たちが歩いた道を進むと、奇妙な小道に出くわした。日本軍の作ったショートカットだという。草木をかき分けてここを進むと、英軍が待ち伏せた山の頂にたどり着いた。


 現地のミャンマー人の村人たちは「疲労困ぱいの日本軍だったが、日露戦争時代から得意だった“夜襲”と“2方向からの囲い込み”で、ここを突破した」と語る。


 囲い込みの狙いは主に退路と補給を断つことだった。しかしすでに敵軍は空輸補給を実現しており、今も英軍の乾パンの箱や缶切りが落ちていた。夜襲の目的は主に砲弾の回避だった。


 前出の元日本兵は「目的地のインパールでは、敵軍からまぶしく照らされ、餌に群がったアリのように空襲を受けた」と言う。武器力、戦略面でも、インパール作戦での日本は致命的に差をつけられたのだ。


 山を越えて、トンへーという村にたどり着いた。ここの村人は戦後、トラの襲来に悩まされたという。


 村人は「森で死んだ日本兵たちをトラが食べるようになったので、味を覚えて村に来るようになったんです。我々の家が高床式であることは、洪水対策だけではなく、トラ対策にもなりました」と苦笑いを浮かべた。


 余裕のあった英軍は、戦死した仲間を連れ帰った。だが日本軍は、仲間を置き去りにするほかなく、その道は戦後、「白骨街道」と名付けられる。村人たちは「白骨街道とは、あまりに的を射た名称だ」と異論がなさそうだった。
 (ノンフィクションライター・せりしゅんや)


☆せり・しゅんや(本名・善理俊哉)1981年、埼玉県出身。ノンフィクションライター、格闘技トラベラー。世界各国の格闘技リサーチとその報告を続けている。中央大学理工学部在学中にアマチュアボクシングをメーンに格闘技全般、旅関係の執筆を始める。