02年8月27日小野伸二の大偉業が稲本潤一に消された瞬間 欧州CL予選3回戦第2戦で2戦連続決勝ゴールも…

2020年08月04日 11時30分

小野伸二

【東スポ60周年企画 フラッシュバック(16)】今から18年前、一人の日本人天才フットボーラーが欧州サッカー最高峰の舞台で輝きを放った。日本の至宝とも呼ばれたMF小野伸二(40=琉球)。2002年日韓W杯で日本代表が史上初の16強入りを果たし、日本国民の熱狂も冷めやらない中、オランダ1部の名門フェイエノールトで偉業を成し遂げた。本紙連載「フラッシュバック」では当時の活躍を振り返るとともに、本紙に語った「秘めた思い」をクローズアップ。飽くなき向上心を見せたヒーローが語った天才のルーツとは――。

 1994年にFWカズ・三浦知良がイタリア・ジェノアへ移籍し、98年フランスW杯後にはMF中田英寿が同国ペルージャに戦いの場を移して大活躍。日本人選手が海を渡ることが珍しくない時代に変わったが、2001年夏にフェイエノールトに移籍した小野が周囲に与えたインパクトも、また強烈だった。

 加入後すぐにレギュラーに定着。主に守備的MFでプレーし、針の穴を通すような受け手に優しいパスは地元メディアから「ベルベット(織物)パス」と称された。名将ベルト・ファンマルバイク監督のもと、オランダ代表FWピエール・ファンホーイドンクや同MFポール・ボスフェルトといった重鎮からも実力を高く評価され、加入1年目でUEFA杯(現欧州リーグ)制覇に貢献。その勢いのまま日韓W杯4試合に出場し、日本代表史上初となる決勝トーナメント進出を果たした。

 ただ、W杯直前に虫垂炎を発症し、決してベストコンディションで戦ったわけではなかった。当然、W杯後にフェイエノールトに戻った際にはチームメートや地元メディアから体調を心配された。それでも、小野は驚異的な回復力と卓越した技術で不安の声を吹き飛ばした。

 小野にとって02―03年シーズン公式戦初戦となった8月13日の欧州チャンピオンズリーグ(CL)予選3回戦第1戦。相手はW杯決勝トーナメント1回戦で敗れたトルコの強豪フェネルバフチェ。前半は一進一退を繰り返す厳しい展開だったが、後半19分に3列目から攻撃参加した小野がファンホーイドンクとの鮮やかなワンツーから決勝ゴールを奪い、1―0で先勝した。

 迎えた2週間後(同27日)の第2戦。トルコ・イスタンブールのシュクル・サラジオウル・スタジアムには5万人以上のフェネルバフチェサポーターが詰めかけ、危険な空気が充満していた。サポーターと警官隊の衝突や、真っ赤に燃える発炎筒。後に小野が「スタンドのサポーターが跳びはねると、ピッチが揺れていた。今までで一番と言っていいほど恐怖を感じたスタジアム」と振り返るほどの“究極のアウェー”だった。

 第1戦を落としているフェネルバフチェは開始直後から猛攻。特に中盤を制圧するため、ダブルボランチの小野とボスフェルトに厳しいチャージを仕掛けてきた。だが、フェイエノールトは前半をスコアレスでしのぐと、後半3分に試合を動かした。

 ボスフェルトのボール奪取で攻撃のスイッチが入り、前線のファンホーイドンクとFWボナベンチュール・カルーが相手DFの裏のスペースに侵入。この動きでガラ空きとなったバイタルエリアに小野がスルスルと駆け上がり、ボスフェルトからのパスを受けた。すぐに右足シュート。トルコ代表GKリュシュトゥ・レチベルの壁を粉砕して、第1戦に続いて先制ゴールを奪った。

 狂気に満ちたスタジアムはこれで一気に静まり返った。貴重なアウェーゴールを奪ったフェイエノールトは試合の主導権を握り、後半43分には小野が絶妙なスルーパスをカルーに通し、その流れからダメ押し点を奪って2―0の勝利。2戦合計3―0とし、全得点に絡んだ小野の活躍でフェイエノールトはCL本大会の出場権を獲得した。

 予選とはいえ、CLのホーム&アウェー戦両方でゴールを奪ったのは日本人選手では小野が初めて。
 敗退で大荒れとなったフェネルバフチェサポーターを横目に、天才MFは満面の笑みを浮かべてピッチを後にした。この時までは、小野の快挙が欧州だけでなく、早朝の日本でもトップニュースになるはずだった。

 だが、取材エリアで小野を待ち構えた日本のメディアに入ってきた一つの情報が、状況を一変させた。
「稲本がハットトリックしたようだ」

 同日、同時刻にキックオフとなっていたインタートトカップ(当時のUEFA杯予選)決勝第2戦のボローニャ(イタリア)戦で、フラム(イングランド)に移籍加入したばかりのMF稲本潤一が初先発でいきなり3得点の大爆発。チームを3―1の勝利に導き、優勝でUEFA杯出場を決めた。

 この話をすぐに伝えると、小野は「あー、負けたー…」と天を仰いだ。「そんなことないでしょ。小野くんのほうが大会の格は上だし、こんな環境の中で勝利につながるゴールも決めたし、何といったってCLで2試合連続決勝ゴールだよ。負けた、というのは…」と水を向けると、間髪を入れずにこう返してきた。

「いやいや、やっぱり負けですよ。サッカーってゴールを決めるスポーツですから、どんな試合でもハットトリックした選手はすごいんです。もちろん試合に負けたら何の意味もないけど、今日は僕もイナ(稲本)も勝ってる。だったら1点だけの僕と3点のイナでは、イナの勝ちです。あーあ、また頑張ろ」
 それは、まるで敗者のコメントのようだった。

 小野と稲本。1979年生まれで「黄金世代」と呼ばれた同学年の2人は常に切磋琢磨を続けてきた。G大阪の稲本が97年に当時の最年少記録となる17歳6か月でJリーグデビューを果たすと、負けじと浦和の小野は一足飛びで98年4月に日本代表デビュー。東西の逸材が融合した99年ワールドユース選手権(現U―20W杯)ナイジェリア大会で準優勝を果たし、日本サッカー界の歴史をつくった。

 稲本が「そこまでのライバル心はない」とひょうひょうとしていたのに対し、小野は「自分が同期の中で一番じゃないとイヤ」という負けず嫌い。納得いく活躍ができなかった日韓W杯で、稲本が大ブレークした姿は素直に喜べなかった。

「だから、フェイエに戻ったら絶対にやってやろうと思っていたんですよ。それで(CL予選)第1戦でゴールを決めて喜んでたら、イナも決めてるって聞いて。そして今回も僕より2点も多いハットトリック。正直、悔しいですよ」
 実は小野がフェネルバフチェとの第1戦でゴールを決めた日、稲本もインタートト杯決勝第1戦でゴール。運命に導かれるように、2人は欧州の地で同じ日に活躍していた。

 主戦場をオランダに移した小野は、目の前の強豪やスーパースターたちだけでなく“見えないライバル”とも戦っていた。黄金世代の先頭は譲らない――。天才が成長を続けられた理由は、意外と単純でわかりやすいところにあったのかもしれない。

 ☆おの・しんじ 1979年9月27日生まれ。静岡・沼津市出身。少年時代から「天才」と称され、清水商高から98年に浦和に加入した。同年4月の韓国戦でA代表デビューを果たし、フランスW杯メンバー入り。99年ワールドユース選手権では主将として準優勝。2001年にフェイエノールトに移籍し、04年アテネ五輪にはオーバーエージ選手として出場した。06年の浦和復帰後はボーフム、清水、ウェスタンシドニー、札幌を渡り歩き、19年から琉球でプレー。日本代表56試合出場、6得点。175センチ、76キロ。家族は千恵子夫人と2女。