森保ジャパンが抱える課題に対する〝西野流〟の見解は――。2018年ロシアW杯で日本を16強へと導いた前日本代表監督の西野朗氏(67)に本紙が独占インタビュー。第2回では、11月開幕のカタールW杯へ向けてベテラン勢の処遇、サプライズ選出はあるのか、そして〝至宝〟のMF久保建英(21=マジョルカ)の現状について鋭く語った。

 ――1トップを務めるストライカーの問題がなかなか解決しない

 西野氏(以下、西野)日本は中盤の構成力はあるが、問題は決定力。海外でFW古橋(亨梧)やFW前田大然(ともにセルティック)が成長して、リーグではストライカーらしい働きをしている。ずっとサコ(FW大迫勇也=神戸)に任せきりではね。それに続く選手たちが海外ではいいチャレンジをしているが、まだ代表ではなかなかフィットしていない。自信をつけた古橋がもっと輝いて11月にいるとか、FW浅野(拓磨=ボーフム)や大然というスピードスターが守備ラインを破るだけでなく決定力を高めているなど、そういう成長が必要だ。

 ――セットプレーで点を取れない

 西野 過去を振り返ってもFKでヤット(MF遠藤保仁=磐田)とかMF本田(圭佑)が直接入れている。ロシアでもCKから大迫が入れた。あんなに有効な戦術はない。日本はトリッキーなことが得意だし、何かのキッカケで変わるはず。ドイツはフィジカルにものをいわせ(パターンを)変化させてくることは少ないだろうし、日本はサインプレーを多用したほうがいい。小細工的なことは得意だしね。

 ――処遇が注目されるベテラン勢は必要か

 西野 やっぱり経験値が、あのW杯の空気感の中で生きるという選手がいる。あの独特な空気感の中で自分のスタンダードを持っている。FW岡崎(慎司=カルタヘナ)や、DF長友(佑都=FC東京)とかDF吉田麻也(サンプドリア)などキャリアのあるメンバーは何か違う。落ち着いていてW杯でそのまま計算でき、試合に起用できるなという感覚を監督は持つ。特に長友や吉田はW杯に対する思いが違う。

 ――存在感は抜群

 西野 練習が終わった後も人一倍走ったり、彼らは思いが強いし実践しようとしている。吉田も今シリーズ(6月の4試合)は必ずしもトップパフォーマンスではなかったが、絶対(本番に)合わせてくる。(ミスの出た)チュニジア戦が絶対プラスになる。サコもたぶん、今回選ばれなかったことでメラメラしている。すべてがベテランの経験値というわけではないが、絶対そういう部分は必要と思う。正直、長友があんなに右サイドもこなせると思わなかったが、ああいうポリバレントなプレーをベテランがやると26人に入る上で強みになる。

 ――伸び悩みも指摘される久保をどう見るか

 西野 前髪が長くてボールが見えてないのかな(笑い)。一時スケールがダイナミックになったな、吹っ切れたなとスペインでの成長を感じた。だがコンスタントにリーグで出ていないと、またスケールが小さくなって、高いテクニックで突破できるという強い自信が安定していないように感じる。やっぱりランニングでボールを引き出したり、もっと優位な状況を自分で作り出すとかしないと。相手が2~3人いるような状況でしかボールをもらえていないから、もっとランでいいポイントで受けて、1人かわせばフィニッシュに持っていける状況をつくるべきだ。技術は卓越しているが、あまり状況は変わらないと自身が一番歯がゆいと思う。今後はコンスタントにリーグでプレーしてほしい。毎試合出て、タフに鍛え上げなければいけないところだと思う。

 ――本大会では必要か

 西野 確実に二重丸というポジションではないと思う。右サイドでいえば(MF伊東)純也(ゲンク)やMF堂安(律=PSVアイントホーフェン)がいるわけで。そこに入るにはね…。オプションを増やせば建英はセンターでもできるが、競争をしなければいけないレベルだと思う。

 ――今後、新戦力は

 西野 浮かんでこないね。期待したいのはこの前(6月)の28人。これから多少活躍したとしても、チームとしてやってきた4年近くのコアな選手たちは競争力が非常に高かった。そこに割って入るなら、6月に入っていなければおかしい。多少点を取ったから、じゃあ入れるというわけにはいかないレベルでの競争をしてきたのだから。そんなに簡単に活躍できる甘い世界ではない。

☆にしの・あきら 1955年4月7日生まれ。埼玉県出身。浦和西高から早大を経て日立製作所でプレー。指導者として96年のアトランタ五輪で日本を率い、優勝候補のブラジルから大金星を奪う〝マイアミの奇跡〟を演じた。G大阪を率いて2008年アジアチャンピオンズリーグ制覇。18年4月にバヒド・ハリルホジッチ監督の電撃解任を受けてロシアW杯開幕2か月前に日本代表監督に就任すると、2大会ぶりの16強へと導いた。19年7月にタイ代表監督に就任し、W杯予選敗退後の21年に退任した。