【多事蹴論(36)】ジーコジャパン時代にあった“鉄の掟”とは――。2006年ドイツW杯を目指していた日本代表では10番を背負うMF中村俊輔が絶対的なFKキッカーとして君臨していた。左足から繰り出される精度の高いキックはまさに世界屈指。スコットランド1部セルティック時代には欧州チャンピオンズリーグでマンチェスター・ユナイテッド(イングランド)からFKゴールを決めるなど、日本代表にとって貴重な得点源だった。

 世界的名選手で元ブラジル代表10番のジーコ監督も俊輔のFKを絶賛しており、そのキックを生かすため、前線の選手には敵ゴール近くでファウルを誘ってFKチャンスをつくり出すことが厳命されていた。実際、日本が連覇した04年アジアカップ(中国)でもFW鈴木隆行は、粘ってボールをキープすることが「僕の仕事」と断言していたように、ゴールを奪うため、いかに俊輔へ“つなぐ”のかがチームの重要な戦略になっていた。

 そんな中、俊輔が不動のキッカーを務めるFKの好機を虎視眈々と狙っていたのが、ブラジルから日本に帰化したDF三都主アレサンドロだ。俊輔と同じ左利きの選手でクラブではFKキッカーを担っていた。ある代表合宿中、三都主は本紙の取材に「ボクも自信はあるんですよね。FKでチャンスがあれば蹴りたいんですけど…。得意な位置でのFKなら一応、蹴りたいとは言うのですが…」とキッカー願望を明かしていた。

 日本代表でFKゴールを決めればヒーローになれることやドイツW杯に向けたメンバー生き残りをジーコ監督にアピールするため、三都主は自慢のキックを披露したかったのだ。しかし、チームメートからは「お前はFKを蹴るなよ。直接ゴールを狙える位置はすべて俊輔に任せろ」とダメ出し。さらには「勝手にFKを蹴ったら許さないからな。いいな、絶対だぞ」と“恫喝”する選手もいたという。

 ジーコジャパン時代はFKキッカーも指名制ではなかったため、チームとしては三都主が蹴ることは禁止されていなかった。それでも俊輔と同じ左利きでFKのとき、シュートレンジやシュートコースなども酷似する同じタイプのキッカーだったため、イレブンはより得点確率の高い10番にFKを全面的に任せたい意向が強く、三都主の希望は同僚たちに封殺されたわけだ。

 もちろん、ジーコジャパンでは右利きの選手の方がFKゴールを狙いやすい場面ではMF中田英寿やMF遠藤保仁がキッカーを担当することが“暗黙の了解”になっていたという。いずれにしても、メインキッカーは世界からも注目されていた俊輔で、そのパフォーマンスとともに、FK力で日本代表のレベルを押し上げたのは間違いない。