【多事蹴論(12)】 壮絶なリハビリの結末とは――。“ドーハの悲劇”で知られる米国W杯アジア最終予選(1993年10月、カタール・ドーハ)を前に日本代表は「左サイドバック問題」に苦悩していた。不動のレギュラーだったDF都並敏史(現関東1部ブリオベッカ浦安監督)が負傷から復帰できず、その代役が定まっていなかったからだ。

 94年の米国W杯に初出場を目指していた日本代表は93年5月、同アジア1次予選(日本とUAEで集中開催)を激闘の末に突破。左サイドバックの都並もチームの躍進に大きく貢献した。大会直後の5月15日、プロサッカーのJリーグが開幕し、華々しいスタートを切る中、その後の広島戦で左足首を負傷。さらにリハビリ半ばにチーム事情から強行復帰を果たすも、7月に患部を悪化させてしまった。

 都並は戦線離脱し、所属するV川崎のJリーグ初代王者と10月のW杯アジア最終予選を見据えてリハビリに専念することになった。各方面から一刻も早い戦列復帰が待望されていた都並は「痛みが消える」「早く治る」と聞けば、怪しげなクリニックやジムなどにもちゅうちょなく足を運んだ。そんな中で行きついたのは知人から聞いた「謎の油療法」だった。

 当時、都並は「九州の山奥に仙人みたいな人がやっているところがあった。ツボに入った低温の油の中に足を入れて、次に、やけどするんじゃないかってほどの熱い油が入ったツボに足を入れる。それを交互に繰り返すんだけど、足が真っ赤になって、ものすごい腫れ上がる。そうすると、今度は先生が硬い木の棒で足を叩き始めるんだよ。それが痛いってもんじゃなくて…」と語っていた。

 とにかく早く試合に出て、チームに貢献したいという一心だったが、効果のほどが定かではない“治療”にも手を出さなければならないほど、焦っていたのは間違いない。ただ、回復傾向にはあったものの、患部の痛みは治まらず、完治には至らなかった。W杯アジア最終予選に臨む日本代表でプレーできるかは微妙な情勢だった。

 そこで日本代表ハンス・オフト監督は同年9月のスペイン遠征で都並とともにMF江尻篤彦(現J2東京V強化部長)を抜てき。予選前、最後の強化試合となった10月4日のコートジボワール戦ではMF三浦泰年(現JFL鈴鹿監督)を招集し、左サイドバックの適性をチェックした。そして迎えた最終予選では三浦とDF勝矢寿延が同ポジションを務め、痛み止めを飲みながら練習していた都並に出番はなかった。

 日本代表は最終イラク戦に引き分けて初のW杯出場を逃した。帰国した空港で悲愴感を漂わせた都並に会うと、わざわざ立ち止まり「本当に申し訳ありませんでした」と、当時20代前半だった本紙記者に深々と頭を下げた。仮に都並が万全の状態だったなら“ドーハの悲劇”も違ったものになっていたかもしれない。