【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(32)】1997年11月16日、フランスW杯アジア第3代表決定戦は岡田武史監督率いる日本代表がイラン代表に3―2で競り勝ち、初のW杯切符を獲得した。開催地となったマレーシアの都市にちなんで「ジョホールバルの歓喜」として語り継がれているが、実は決戦地を巡って各国の思惑が絡み合う泥仕合が展開されていた。本紙連載「フラッシュバック」では、日本に有利なマレーシア開催に尽力した日本サッカー協会の小倉純二元会長(82=現相談役)が当時の舞台裏を語った。
フランスW杯アジア最終予選はもともとセントラル方式を予定していた。サウジアラビアなど西アジア勢は開催地にバーレーンを推し、日本や韓国の東アジア勢はマレーシアをプッシュ。平行線のまま国際サッカー連盟(FIFA)が仲裁に入る形でホーム&アウェー方式の導入を決めた。
小倉氏(以下小倉)アジアが大会方式でもめていることに怒ったFIFAの(レナート)ヨハンソン競技委員長(故人)の提案で急きょ、ホーム&アウェーとなり、第3代表決定戦は中立地で開催すると決まった。そして予選が進んで、日本が2位で第3代表決定戦を戦うことになりそうだというとき、FIFAの技術部長ウォルター・ギャグさんから僕に電話が入って「AFC(アジアサッカー連盟)のコンペティション委員長を務めるサウジアラビアのアブダハルがバーレーンで開催しようとしているぞ」と…。
W杯アジア最終予選は10か国が参加し、A、Bの2グループに分かれ、ホーム&アウェーの総当たりで戦う。各組1位が出場権を獲得し、各組2位同士が第3代表決定戦で争うことになったが、日本とは別のA組では常連国サウジアラビアが2位になりそうだったことから“暗躍”。水面下で自国に有利な隣国バーレーン開催に動いていた。
小倉 まったく知らなかったから、えらいことになったなと…。中東の独特な気候に日本は不慣れだったからね。すぐに(当時FIFA事務局長だったジョセフ)ブラッターに事情を説明した。宗教上の問題も考慮し、東と西の決定戦になった場合は、地理的にも中間でAFC本部のあるマレーシアで開催することに決まった。
そこで日本はマレーシアサッカー協会にアジア第3代表決定戦の開催地になったことを通達。ところが、試合日の11月16日は、国内大会の開催日で首都クアラルンプールのスタジアムはフル稼働中のため、国際試合を行える競技場がないという。そこで急浮上したのは同国第2の都市・ジョホールバルだった。
小倉 マレーシアでは日本の天皇杯にあたる大会が開催される日だと言われ、どうしようかと思っていると、マレーシアサッカー協会のポール・モーニー専務理事から「ジョホールバルのスタジアムが空いている。あそこのチームは負けたから」と提案があった。もしジョホールバルが空いてなかったら、バーレーン開催になる可能性もあったかもしれない。
W杯アジア最終予選B組は韓国が独走し、日本はUAEと争いながらも2位の座を死守。第3代表決定戦に進出した。A組は最終戦でサウジアラビアが1位となり、2位のイランと最終決戦を戦うことになった。試合前日の練習後、イランのエース、FWゴダダド・アジジは車イスで報道陣の前に姿を現し、周囲は騒然となった。
小倉 アジジの件について、日本としてはまったく信じていなかったし、私も気にしていなかった。だからだまされているという感じもなかったし、どうせ出てくるだろうってね。それよりも日本が警戒していたのはFWアリ・ダエイと、センターバックのDFモハメド・ペイラバニだったから。アジジよりもダエイの方が怖いってね。
ジョホールバルでの激突では予想外のこともあった。中立地開催にもかかわらずラルキンスタジアムは約2万人の日本人サポーターで青く埋め尽くされた。現地のファンやイランサポーターはごくわずかとあって、まるでホームのような雰囲気。日本代表イレブンはサポーターの大声援を背に奮闘した。
小倉(日本から直行便のある)クアラルンプールではなかったんだけど、幸いなことにシンガポールから近かったので、本当に大挙して来ていただいた。試合が決まってから時間もなかったけど、あんなにたくさんのファンの方が来てくれて…。そこはびっくりしたし、チームの大きな力になったのは間違いないんじゃないか。
試合は日本が前半39分にFW中山雅史のゴールで先制するも、後半直後にアジジに決められて同点。さらに14分にはダエイに追加点を決められてリードを許した。しかし31分にはカズことFW三浦知良に代わって途中出場したFW城彰二のヘディング弾で同点とし、延長戦に突入。そして延長後半13分、FW岡野雅行が滑り込みながらもゴールに押し込み、歓喜の瞬間を迎えた。
小倉 途中でダエイのシュートがバーに当たったりして、ひやひやしたし、カズも途中で代えたしね。それで、最後は岡野ですよ。私も跳び上がって喜んだし、すぐにピッチに下りて岡田(武史監督)とかヒデ(中田英寿)とか、みんなと抱き合って…。夜も食事しながらみんなで盛り上がったのは記憶に残っている。それと、翌日の早朝にイランが練習していたのは忘れられないね。
ついにW杯切符をつかんだ日本は1954年スイス大会のアジア予選に初参加してから12大会目にして初の本大会出場権を獲得。フジテレビ系で中継されたテレビ視聴率は深夜帯にもかかわらず、47・9%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)にも達し、日本国民が大熱狂した。すでに2002年日韓W杯の開催国に決まっている中、絶対に負けられない戦いを制した。
小倉 ここで日本が負けたら責任を取って辞めるつもりだった。日本は最終予選前、02年W杯の開催国に決まっていて、韓国にはフランス大会に出られなければ「W杯出場が開催国枠というのは初めてだ」と言われていたし、そうなれば恥ずかしいことだったからね。でもマレーシアで開催できたから大勢のサポーターから後押しを受けられたし、勝負に勝てた。
日本代表は98年フランスW杯から6大会連続出場中。初めてホーム&アウェーで行われた同予選以降、日本代表への注目度は高まった。小倉氏は「ホーム&アウェーになり、多くの方が試合を見てくれた。(人気定着の)キッカケになったのは間違いない」と話す。歴史にタラレバはないが、ピッチ外で奔走した関係者たちがいなければ、日本サッカー界の躍進はなかったかもしれない。
☆おぐら・じゅんじ 1938年8月14日生まれ。東京都出身。早稲田大卒業後、62年に古河電工に入社。選手経験はないものの、サッカー部の運営をサポート。81年には日本サッカー協会の国際委員、90年に協会の特任理事、92年に専務理事となった。94年にアジアサッカー連盟(AFC)理事に就任。2002年日韓W杯では日本組織委員会事務総長代理として大会を成功に導いた。同年から11年まで国際サッカー連盟(FIFA)理事。10年に日本サッカー協会の会長に就任した。