97年9月28日 宿敵韓国に決めた「伝説のループ」山口素弘氏が回顧 

2020年09月09日 11時00分

ループシュートの態勢に入った山口。相手の動きを見て打つ余裕があった

【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(22)】サッカー日本代表はW杯予選で数々の激闘を繰り広げてきたが、最も衝撃的な一撃としてファンやサポーターの脳裏に刻まれているゴールがある。1997年9月28日、永遠のライバル韓国と国立競技場で激突したフランスW杯アジア最終予選で生まれた“伝説のループシュート”。本紙創刊60周年を記念した連載「フラッシュバック」では、ゴールを決めた山口素弘氏(51=現J1名古屋執行役員フットボール統括)に日本サッカー界の歴史に刻まれる名場面の裏側を語ってもらった。

 悲願のW杯出場を目指す日本は、アジア最終予選で韓国、ウズベキスタン、UAE、カザフスタンとB組で同組になった。フランスW杯のアジア出場枠は3・5だったため、組1位なら出場権獲得。2位ならA組の2位とのプレーオフに回るとあって、首位通過を争うシ烈な戦いがスタートした。

 初戦カザフスタン戦はホームで6―3と快勝。続く敵地のUAE戦はスコアレスドローながらアウェーで勝ち点1を死守した。そして迎えた第3戦は宿敵韓国をホームで迎え撃った。日本サッカーの大願を左右する大一番であることは、誰もが分かっていた。国立競技場を5万6704人の大観衆が埋め尽くした。

 山口氏(以下山口)組分けが決まって韓国と同組になったとき、やっぱり韓国を超えないとW杯というものは見えないんだなと思いましたね。それを踏まえてのホームの試合でした。UAE戦が終わってからの異常な盛り上がりは今でも覚えています。僕らも当然、韓国というところでかなりモチベーションが上がっていたし、特別な思いがありました。

 まさに運命の一戦。加茂周監督はそれまでの3バックシステムから4―4―2に変更し、山口はMF本田泰人とダブルボランチを組んで攻撃的ポジションのMF中田英寿、MF名波浩とともに中盤を形成した。

 山口 前にいる中田英と名波をどうやって生かすか。あのメンバーでの4―4―2は力を発揮できる、自分にとってはやりやすいと感じていました。距離感においてコンパクトさが保ちやすい。うまくいくかなと思っていましたね。

 試合が始まると韓国は守備ラインを下げてガッチリと守り、機を見てカウンターを狙う作戦に出る。日本はボールを支配するもなかなか決定機をつくれないまま0―0で前半を折り返した。突破口を開くべく後半からDF名良橋晃を投入すると日本にリズムが生まれ、後半22分にその瞬間はやってきた。左サイドからボールを運んだDF相馬直樹が相手の寄せにキックをミスしてMF高正云にボールが渡る。ここを山口は狙っていた。

 山口 高選手はあのころ日本(C大阪)でやっていたので、プレッシャーをかけるとアウトサイドでボールを扱うクセを分かっていました。それがインプットされていたので、プレッシャーをかけてうまくボールを奪えた。ボールを奪って前に運んだ時にFW呂比須(ワグナー)とカズ(FW三浦知良)が見えて、2人のどちらかを選択しようと。シュートはあまり考えていなかったですね。だけどDF洪明甫選手がいて、呂比須へのパスが読まれていると思ったのでパスを選択せずにそのままボールを運んで(洪を)かわせた。エリア内に入れたのでシュートの選択肢も出てきました。

 ペナルティーエリアに侵入した山口は切り返した後に一瞬動きを止めるも、すぐさま右足を振る。シュートはきれいな放物線を描きながらGK金秉址の頭上を越えてゴールへと吸い込まれていった。

 山口 GKの位置は見えていて、意図して顔を上げなかった。顔を上げるとGKがタイミングを取りやすい。顔を上げなくてもGKが前に出ているのが見えていて、これはパッと上しかないなと判断しました。

 冷静に当時の場面を振り返るが、究極の大舞台でまさかのループシュートを選択し、しかも決めきるなど並大抵の芸当ではない。その背景には何があったのか。

 山口 小さいころからああいうプレーは好きでした。裏をかくとか頭越しとか。頭越しのパスを普段からやったりしていたので自然と出た。実を言うと、大学4年時の総理大臣杯の時にもやっていた。あの後に大学の同級生に「あの時もお前やったよな」と言われましたね。ただ、あの場面で瞬時に出たのはW杯予選の日韓戦という雰囲気があり、それを楽しみにしていた自分がいて、大一番という高揚感も相まって“ゾーンに入る”というのがあったのかもしれません。後から考えると外してたらとんでもない感じだけど、やるときには失敗するとはみじんも思っていなかった。

 こうして“伝説”は生まれたが、山口にとってこの試合は喜びよりも悔しさのほうが大きかった。その後に逆転され、試合は1―2で敗戦。日本は窮地を迎えることになった。

 山口 試合は負けてしまったし、次の日に移動で振り返る余裕がなく、余韻に浸る間もなかったです。勝つチャンスは十分あったし、2失点目のミドルシュートを決められた場面で最後に僕がスライディングをしていて、そっちのほうが悔しかった。あと靴1足分くらい足が長ければ、あと1秒早く反応していれば…。そのほうが悔しかった。

 韓国に敗れた後、続くアウェーのカザフスタン戦でも終了間際に追いつかれて引き分けに終わり、加茂監督は解任。岡田武史ヘッドコーチが監督に昇格した。山口にとって加茂監督は横浜フリューゲルスでも指導を受けた恩師だけに、期する思いがあった。

 山口 加茂監督だから山口は選ばれている、と言われたこともあるかもしれないけど、僕としてはいいところも弱点も知られているので意識は特別なかったです。だけどプロになる時に加茂さんの下でやっていろいろ学ぶことがあったし、いろんな道を開いてくれた。その人とW杯へ、という思いはありました。カザフスタンで加茂さんが更迭された次の日の朝に、エレベーターでバッタリ会って「頑張れよ」というひと言を言われて…。いつも厳しい人がそのときは、かなりのプレッシャーから解放されたというか何と言ったらいいか分からないような顔になっていた。僕としては、それは加茂さんじゃない。そういう顔をさせてしまったと申し訳ない気持ちになりました。

 その後、日本は2位に滑り込み、イランとの第3代表決定戦を制して悲願のW杯初出場を果たした。まさに栄光と悲劇が表裏一体のアジア最終予選。そんなしびれる舞台に、今度は森保ジャパンが順調にいけば来年臨む。最後に山口氏は“後輩”たちへエールを送った。

 山口 背負わなければいけないものが代表選手にはあります。それを感じながら戦ってほしいし、後の代表にもつながるような戦いを毎試合見せてほしいです。

 ☆やまぐち・もとひろ 1969年1月29日生まれ。群馬県出身。前橋育英高から東海大を経て、全日空サッカークラブに入団。Jリーグでは横浜F、名古屋、新潟、横浜FCでプレーして通算490試合出場、42得点を記録。日本代表では95年に加茂ジャパンで初選出され、97年のフランスW杯アジア最終予選で全8試合に出場、98年のフランスW杯では全3試合にフル出場した。現役引退後は横浜FC監督、JリーグU―22選抜コーチを歴任し、現在は名古屋でチーム全体を統括している。